大浦
おおうらOoura
全国896位 ・ 約2.1万人
大浦(おおうら)は、近江・摂津などに大浦庄がある。
1件の公開家系図に 4人
基本情報
- 読み
- おおうら
- ローマ字
- Ooura
- 全国順位
- 全国896位
- 推計人数
- 約2.1万人
- 全国比率
- 日本人のおよそ0.017%
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
大浦をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Ooura読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「大浦」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
牡丹
縁を丸く波打たせた牡丹の花に、丸い花びらを重ねた図案。
『姓氏家系大辞典』第1巻 553コマに「家紋牡丹丸」とあります。 原典で見る →
図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 近江国(滋賀県)
- 摂津国(大阪府・兵庫県)
- 陸奥国(東北地方)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
大浦(おおうら)は、近江(滋賀県)・摂津(大阪府・兵庫県)などに大浦庄がある。また陸奥(東北地方)・対馬以下、大浦の地名は諸国に多い。この氏はこれらの地名を負ったもので、いくつもの系統がある。 【1】金姓(一説に清和源氏南部氏流、あるいは藤原姓)― 後の津軽家で、陸奥国津軽郡の大浦郷から起こった。後に述べるように、おそらく南部家の一族・久慈氏から分かれた家と思われるが、南部氏と絶縁して独立した後、その庶流というのを忌んでか、主として近衛家の庶流といい、また他に種々の説がある。 『寛永系図』には「津軽、家紋は牡丹の丸。政信(家伝にいう、近衛殿、後の法成寺尚通の猶子となる。この故に藤原氏と称する。ただしその実父は詳らかでない。天文十年五月九日に死す)―守信(永禄十一年十月九日死)―為信」と載せる。 『一統志』に「大浦信濃守光信公は種里に居住し、花輪郡を掌握した。大永六年に逝去、長勝寺に葬る。二祖の信濃守盛信は天文七年逝去、長子の政信が相続した。政信は近衛前関白龍山公尚通に親昵し、猶子であった。これをもって寛永年、諸家系譜を官撰した時に、近衛殿より、政信は龍山公の猶子であって藤原氏であるべき由の一封を作られた。 政信の長子を為則といい、次男を守信という。守信は紀伊守と称し、幼名は甚三郎。為則が死んで、守信の子・武田為信をもって嗣とした。永禄十年である」とある。 しかるに『藩翰譜』には「津軽右京大夫藤原為信は、代々南部の被官として津軽の地に住んだ。世に伝えるところは近衛殿の庶流という。いずれの時にか、津軽の地に流されなさった人が、ここで設けられた息男の後だという。為信の時に至って、南部の外戚に付いて親しかったので……(この先は引用が閉じないまま途切れている)
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
大浦オホウラ近江、攝津等に大浦庄あ!!又陸奥、對馬以下大浦の地名諸國に多Lo此の氏は此等の地名を負ひしにて數流あり。 1金姓(一に〓和源氏南部氏流、或は藤原姓)後の津輕家にて、陸奥國津軽郡大浦郷より起る。後述の如く、恐らく南部家の一族久慈氏より分れし家と思はるれど南部氏と絕緣、獨立後、その庶流と云ふを忌みてか、主として近衞家の庶流と云ひ、又他に種々の說あり。寛永系圖には「津輕、家紋牡丹丸。政信(家傳に曰く、近衞殿、後の法成寺尙通の猶子となる。この故に藤氏と稱す。い熱田は大喜まだ其の實父つまびらかならず、天文十年五月九日に死す)-守信(永祿十一年十月九日死)-爲信」と載せ、一統志に「大浦信濃守光信公·種里に居住し、花輪郡を掌握す。大永六年に逝去長勝寺に葬る。二祖信濃守盛信は、天文七年逝去、長子政信相續す。政信·近衞前關白龍山公尙通に親昵し、猶子たり。是を以て寬永年諸家系譜を官撰の時に、近衞殿より、政信は、龍山公猶子にして、藤氏たるべき由、一封をつくらる。政信の長子を爲則と云ひ、次男を守信と曰ふ、守信·紀伊守と稱し、幼名甚三郞、爲則死し、守信の子武田爲信を以つて嗣と爲す、永祿十年なり」とあり。然るに藩翰譜には「津輕、右京大夫藤原爲信は、世々南部が被官として、津輕の地に住しけり。世に傳ふる所は、近衞殿の庶流と云ふ。何れの時にか、津軽の地に流されさせ給ひし人の、此處にて設けられし息男の後なりと云ふ。爲信が時に至りて、南部が外戚に付て親しかりしに……
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
この名字の人々
同じ漢字を使う名字
大浦に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「大」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が大浦の前後にある名字です。
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