土田
つちだTsuchida
全国332位 ・ 約6.4万人
土田(つちた)は、近江・能登に土田庄、常陸などにもこの地名がある。
8件の公開家系図に 3人
基本情報
- 読み
- つちだ
- ローマ字
- Tsuchida
- 全国順位
- 全国332位
- 推計人数
- 約6.4万人
- 全国比率
- 日本人のおよそ0.052%
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
土田をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Tsuchida読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「土田」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
五三桐
桐の葉三枚の上に、花の穂を立てた図案。
『姓氏家系大辞典』第4巻 199コマに「家紋·丸に茶實、五三桐」とあります。 原典で見る →
図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 近江国(滋賀県)
- 能登国(石川県)
- 下総国(千葉県・茨城県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
土田(つちた)は、近江(滋賀県)・能登(石川県)に土田庄、常陸(茨城県)などにもこの地名がある。 ……(中略)この氏は菅原氏の子孫かという。土田源左衛門奉久の子・久通、同じく下総守政久の子・親重があり、ともに生駒豊正の養子となった。また『寛政系譜』も菅原姓とし、先祖の孫兵衛貞雄が土田村に住んだことから起こるとする。家紋は丸に茶の実、五三桐。……また谷藩に多い。「谷」の項を参照。 【2】橘姓 ― 家紋は七星、上藤丸。『寛政系譜』に「彦八郎貴久(源六郎)―政之助信貴―武貴」とある。 【3】佐々木氏族 ― 山内秀遠の子・備前守秀久が美濃国(岐阜県)可児郡の土田村にいて、氏を土田としたという。次項を参照。 【4】公人朝夕人 ― 土田家譜に、次のようにある。「由緒書。公人朝夕の御役は、承久元年、関東北条家の時代に頼経公が京都より御下向のとき、先祖の者がお供して下り、鎌倉に住居いたしました。それより将軍家の御役人となり、諸事に召し使われました。承久のころから今まで五百四十二年になります(承久元年から天明五年までは五百六十七年になる)。 永正十年、将軍恵林院義稙公が江東へ御発向なされた節、私の先祖がお供いたし、将軍に御膳を召し上がられた節は御残飯を下し置かれました。そのときの御器物の上に御箸を置かれて、汝の家の紋にするようにと仰せられました。それより私の家の紋といたしております。御代々このように召し出されました。 信長公の御代までは美濃国土田村にて百八十石の領知を下されており、信長公がどこへお成りの節もお供いたしました。天正四年、安土の御城普請の節には奉行を仰せ付けられ、その後、百石を加増下されました」。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
土田ツチタ近江、能登に土田庄、常陸等にも此の地名存す。……此の氏は菅原氏奇かと云ふ。土田源左衞門奉久の男久通、同下總守政久の男親重あり、共に生駒豐正の養子となる。又寛政系譜も菅原姓とし、先祖孫兵衞貞雄·土田村に住居せしより起る。家紋·丸に茶實、五三桐。……又谷藩に多し。谷條參照。 2橘姓家紋七星、上藤丸。寬政系譜に「彥八郞貴久(源六郞)-政之助信貴-武貴とあり。 3佐々木氏族山内秀遠の子·備前守秀久、美濃國可兒郡土田村にありて、氏を土田とすと云ふ。次項參照。 4公人朝夕人土田家譜に「由緒書。公人朝夕の御役義は、承久元年、關東北條家の時代、賴經公·京都より御下向の時、先祖の者御供仕リ罷下リ、鎌倉に住居仕る。夫より將軍家の御役人に相成リ、諸事に召し仕はる。承久の頃より年數、只今迄五百四拾二年に罷リ成リ候。承久元年よリ天明五年迄、五百六十七年に成る。永正十年、將軍惠林院義稙公·江東御發向なされ候節、私先祖御供仕り、將軍に御膳を召し上げられ候節は、御殘飯を下し置かる。其の時の御器物の上にて、御箸を置かれ候て、汝が家の紋に致すべき旨仰せらる。夫より私家の紋に仕り候。御代々斯の如く召し出され候。信長公御代迄は、四美濃國土田村にて百八十石領知·成し下され罷リ有り、信長公何方へも御成の節は、御供仕り候。天正四年、安土の御城御普諸の節、奉行を仰せ付けられ、其の後、百石を御加增下され候。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
この名字の人々
同じ読みの名字
土田と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
土田に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「土」の字を含む名字
「土田」で始まる・土田を含む名字
土田の字をそのまま含む、より長い名字です。
同じくらいの多さの名字
全国順位が土田の前後にある名字です。
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