白土

しらとShirato

ほかの読み: しらつち

全国1632位 ・ 約9,780人

白土(しらど・しらつち)は、大和国に白土荘があり、東大寺文書に見える。

この名字はまだ図鑑に載っていません

基本情報

読み
しらと ・ しらつち
ローマ字
Shirato
全国順位
全国1632位
推計人数
約9,780人
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

白土をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

「しらと」と読む場合

Shirato読みをそのまま写した形

「しらつち」と読む場合

Shiratsuchi読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 大和国(奈良県)
  • 磐城国(福島県・宮城県)
  • 肥前国(佐賀県・長崎県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

白土(しらど・しらつち)は、大和国(奈良県)に白土荘があり、東大寺文書に見える。また磐城(福島県・宮城県)にもこの地名が存する。 【1】十市氏族 ― 大和国十市郡の豪族で、白土荘から起こる。「国民郷士記」に「白土肥前・白土市助」などを載せている。詳細は「十市」の項を見よ。 【2】桓武平氏岩城氏族 ― 磐城国岩城郡白土村から起こる。岩城師隆の子・椎葉四郎隆義の子孫がこの地にあって白土を称し、のち岩城朝義の子・隆興が白土隆茂の養子となった。この氏の人には、応安の頃、白土常陸守隆弘という人があり、飯野八幡社文書に見える。 また里の古老の説に、白土城は白土小治郎が初めて築いたといい、この小治郎は白土下総守隆忠の先祖と伝える。隆忠は嘉吉・文安・宝徳の頃の人である。その後、永禄・天正の頃、白土城主で鎌田城主に破られた人があるという(「古代記」)。 また「関八州古戦録」に「天正十八年、岩城の被官・白戸摂津守は、岩城能化丸を介助して秀吉公の陣所へ見参した」とある。 また「地名辞書」に「白土は岩城次郎の村で、高久・好島は岩城太郎の村であったが、いつの頃か太郎の家系が衰え、岩城の総領は白土次郎の家に帰した。仁科岩城の系図に『常朝、一に隆弘に作る。法名規堂道弘』とあるのは、すなわち白土次郎の中興の祖であるから、この人の時(応安・明徳より慶永の頃)に太郎の家が衰え、その後岩城大館へ移ったようである」とある。 「こうして岩城四郡を統一し、千葉流の人が白土を知行したものか、白土摂津守運隆という、天文・天正の頃の家老職の家がある」ともいう。 また「思うに、白戸岩城氏はすなわち次郎の家である。『国魂系図』によれば、好島太郎○隆の子・師隆、その長男は岩城隆義、次男は小次郎繁隆である。これを岩城次郎の家祖とする」という。 「その子・大輔乗祐、その子・小次郎隆衛(岩崎弾正隆衡と混同してはならない)と載せられる。永仁・正和の頃の人である」という。 飯野文書、「会津四家合考」に、嘉暦・建武中の岩城小次郎入道願真という者は、隆衡の子孫であろうが世代は知れない。 飯野文書に、貞治三年、岩城周防前司隆○、応安六年、常陸守隆弘がともに見え、隆○は隆弘の父であろうから、系図には朝義……(引用はここで途切れている)

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

白土シラドシラツチ大和國に白土庄あり、東大寺文書に見ゆ。又磐城に此の地名存す。 1十市氏族大和國十市郡の豪族にして白土庄より起る。國民郷士記に「白土肥前.白土市助」等を載せたり、詳細は十市條を見よ。 2桓武平氏岩城氏族磐城國岩城郡白土邑より起る。岩城師隆の子椎葉四郞隆義の子孫·此の地にありて白土を稱し、後岩城朝義の子隆興、白土隆茂の養子となれリ。氏人は應安の頃、白土常陸守隆弘といふ人あり。飯野八幡社文書に見ゆ。又里老の說に、白土城は白土小治郞始めて築くと云ひ、又この小治郞は、白土下總守隆忠の先と傳ふ。隆忠は、嘉吉、文安、實德の頃の人なり。其の後、永祿、天正の比、白土城主の鎌田城主に破られし人ありと(古代記)。又關八州古戰錄に「天正十八年、岩城の被官白戶攝津守は、岩城能化丸を介輔して、秀吉公の旅陣へ見參」と。又地名辭書に「白土は、岩城次郞の邑にて、高久、好島は岩城太郞の邑なりしが、いつの頃にか、太郞の家跡衰へ、岩城の總領は、白土次郞の家に歸す。仁科岩城の系圖に『常朝·一に隆弘に作る。法名規堂道弘』とあるは、即ち白土次郞の中興の祖なれば、此の人の時(應安明德よリ廳永の比)に、太郞の家衰へ、そののち岩城大館へ移れるごとし。かくて岩城四郡一統し、千葉流の人にて、白土を知行せしにや、白土攝津守運隆とて、天文、天正の比の家老職の家あり、」と。又「按ずるに、白戶岩城氏は、卽ち次郞の家なり。國魂系圖に據れば、好島太郞〓隆の子師隆、其の長男は岩城隆義、次男は小次郎繁隆なり。之を岩城次郞の家祖とす。其の子大輔乘祐、其の子小次郞隆衞(岩崎彈正隆衡と混ずる勿れ)と載せらる。永仁、正和の頃の人なり。飯野文書、會津四家合考に、嘉曆建武中の岩城小次郎入道願眞と云ふは、隆衡の裔孫なるべけれど、世代知れず。飯野文書に、貞治三年、岩城周防前司隆〓、應安六年、常陸守隆弘、共に見え、隆〓は隆弘の父なるべければ、系圖に朝義……

姓氏家系大辞典 第3巻 358コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

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