関根
せきねSekine
全国250位 ・ 約8.8万人
関根は、武蔵・上野・下野・陸前・陸奥・羽前などにこの地名があって、この名字を起こした。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- せきね
- ローマ字
- Sekine
- 全国順位
- 全国250位
- 推計人数
- 約8.8万人
- 全国比率
- 日本人のおよそ0.071%
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
関根をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Sekine読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「関根」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
『姓氏家系大辞典』第3巻 441コマに「家紋揚羽蝶、抱澤瀉」とあります。 原典で見る →
図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 武蔵国(東京都・埼玉県)
- 陸前国(宮城県・岩手県)
- 陸奥国(東北地方)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
関根は、武蔵(東京都・埼玉県)・上野(群馬県)・下野(栃木県)・陸前(宮城県・岩手県)・陸奥(東北地方)・羽前(山形県)などにこの地名があって、この名字を起こした。いくつもの系統がある。 【1】清和源氏足利氏流 ― 下野国那須郡の関根邑から起こった。先祖は広沢三郎○義といい、鎌倉将軍家に仕えた人で、『東鑑(吾妻鏡)』にもその名が見える。それから数代の後、宮内○重豊という者が下野国那須郡の関根村に住んだ。これより関根を氏とする。重豊の孫・民部少輔重隆は左馬頭政氏に仕えた。政氏が武蔵国久喜○の館に住んだとき、重隆も従って来て武蔵国埼玉郡青柳村に住んだ。 ……(中略)今この棟札は伝わらない。重隆は永禄十二年二月十六日に没した。重延は後に筑後(福岡県)と号し、慶長十七年八月二十三日に没した。それから三代目の彦右衛門の子・小左衛門という者が、その弟の武兵衛に家を譲り、自分は江戸へ移って仕官した。このとき家に伝えた文書や系図などは小左衛門の方に持って行き、今も子孫が蔵しているという。十次郎は武兵衛から四代の後である。 また雨実寺の境内に五輪の石碑が一基ある。これはこの家の先祖の墓碑だというが、文字がすり減って読めない(『新編武蔵風土記稿』)。成田家の忍城の武士に関根彦左衛門尉輝政があり、同族だろう。その子孫を勝蔵という。 また埼玉郡万慈恩寺村に関根氏がある。「先祖の関○織勝直は広沢尾張守重信の二男で、太田氏房に従い、後に高野山に入って死んだ。勝直の子・大炊助満親は幼年から隣村上野村の宝性寺に入り、成長の後に民間へ下って慈恩寺村に移り、慶長のころ表慈恩寺と当村、さらに花積村など三村のうちで数十石の地を開発し、元和八年二月十二日に死んだ。それから数代を経て今の左衛門に至る。彼の祖父・所左衛門は奇特の評判があって、寛政三年に時の領主・松平大和守から苗字帯刀を許され、さらにその行いが奇特であることを褒賞されたと、『孝義録』にも見える」。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
關根セヰネ武藏、上野、下野、陸前、陸奥、羽前等此此地地名ありて、此の氏を起す、敷流あり。 1〓和源氏足利氏流下野國那須郡關根邑より起る。先祖シ廣澤三郞貢義と云ふ、鎌倉將軍家に仕へし人にて、東艦にも其の名見えたり。夫れより數代の後、宮內承重豐なるもの、下野國那須郡關根村に住す。是れより關根をもて氏とす、重豐の孫民部少輔重隆は、左馬頭政氏に仕へり。政氏·武藏國久喜〓の館に住せし時、重隆從ひ來りて當國埼玉郡青柳村に居住す。……今此の棟札は傳はらず。重隆は永祿十二年二月十六日卒す。重延は後筑後と號し、慶長十七年八月二十三日卒す。夫れより三代日彥右衛門が子小左衞門なるもの、其の弟武兵衞に家を讓り、おのれは江戶へ移りて仕官せり此の時家に傳へし文書系圖等は、小左衞門が方に持ち行きて、今子孫藏すと云ふ。十次郞は武兵衞より四代の後なり。又雨實寺境內に五輪の石碑一基あり。これ此の家の祖先の墓碑なりといへど、文字邊減して讀むべからず(新編武藏風土記)と。成田家 忍城士、彥左奮門尉輝政あり、同族なるべし。その裔を勝藏と云ふ。又埼玉郡萬慈恩寺村に關根氏あり。「先祖關機織勝直は、廣澤尾張守重信の二男にして、太田氏房に從ひ、後高野山に入りて死す。勝直の子大炊助滿親は幼年より隣村上野村寶性寺に入り、成長の後民間に下り、慈恩寺村に移り、慶長の頃表慈恩寺、及び當村、且つ花積村等三村の内にて數十石の地を開發し、元和八年二月十二日死す。夫れより敬代を經て今の左衞門に至れり。彼れが祖父所左衞門、奇特の聞へありて、寛政三年時の領主松平大和守より苗字帶刀を許し、且つ其の行の奇特なるを褒賞ありし由、孝義錄にも見ゆ。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ漢字を使う名字
関根に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「関」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が関根の前後にある名字です。
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