五七桐

足利

あしかがAshikaga

全国3629位 ・ 約3,440人

足利(あしかが)は、下野国足利郡より起こる。

39件の公開家系図に 76人

基本情報

読み
あしかが
ローマ字
Ashikaga
全国順位
全国3629位
推計人数
約3,440人
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

足利をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Ashikaga読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

この名字に記録のある家紋

『姓氏家系大辞典』の「足利」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。

『姓氏家系大辞典』第1巻 54コマに「紋免許、故に當家都紋、五七桐、二引兩云々」とあります。 原典で見る →

図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。

家紋・紋章の調べ方(国立国会図書館 リサーチ・ナビ) →

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 下野国(栃木県)
  • 河内国(大阪府)
  • 近江国(滋賀県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

足利(あしかが)は、下野国(栃木県)足利郡より起こる。足利は「和名抄」に阿志加加と注する。古く「古事記」倭武命の御子に足鏡別王があり、「仲哀記」には蘆髪の蒲見別王に作り、「旧事紀」には華暾の竈見別命に作る。蘆髪・葦瞰はおそらく足利のことで、王はこの地を領されたのであろうという。 中世以来、足利庄がある。後宇多院御領目録に安楽寿院領とあり、本郡より梁田郡にわたる。はじめ秀郷後裔の足利氏がこの庄に拠って大いに栄え、後に源家の庶流もこの地に拠って足利氏を称した。これが有名な室町将軍家である。 【1】藤姓 ― 藤姓足利氏のことは「保元物語」に下野には足利太郎とあり、「平家物語」に「田原藤太秀郷十代、下野国の住人・足利太郎俊綱の子・又太郎忠綱」と載せる。 また「源平盛衰記」に「下野国の住人・足利又太郎忠綱が進み出て言った。淀路も河内路も我らの大事ではない。まったくほかの武者が向かうべきものではない。橋を引かれ、河を阻んだからといって、目にかけた敵を見捨てて時をかけているようでは、吉野法師・奈良法師が参集して由々しき大事となる。 この川は近江湖水の末であるから、渡れないということは断じてあるはずがない。武蔵(東京都・埼玉県)と上野(群馬県)との境に利根川という大河がある。それにもよもや過ぎまい。昔、秩父と足利とが仲悪くてたびたび合戦したとき、寄せるときには瀬を踏み舟に乗って渡ったが、戦に負けて落ちるときには舟にも乗らず、淵瀬を選ぶこともなかった。それでも馬も殺さず人も死ななかった。 また足利から秩父へ攻め寄せたとき、上野の新田入道に語らって搦手に回らせ、大手は古野杉の渡しをし、搦手は長井の渡しと定めていたところ、秩父方に舟を破られて、新田入道は川端に控えていた」とある。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

足利アシカガ下野國足利郡より起る。足利は和名抄阿志加加と註す。古く古事記倭武命の御子に足鏡別王あり、仲哀記には蘆髪の蒲見別王に作り、舊事紀華暾の竈見別命に作る。蘆髮、葦瞰は恐らく足利にて王は此の地を領し給ひしならんかと云ふ。中世以來足利庄あり。後宇多院御領目錄に安樂壽院領と、本郡より梁田郡に亘る。始め秀〓後裔の足利氏此の庄に據りて大いに榮へ、後源家の庶流また此地に據りて足利氏を稱す。此れ有名なる室町將軍家なり。 1藤姓藤姓足利氏の事は保元物語に下野には足利太郞、平家物語に「田原藤太秀〓十代、下野國の住人足利太郞俊綱の子又太郞忠綱」と載せ、又源平盛衰記に「下野國住人足利又太郞忠綱進出で、『淀路河内路も我等が大事、全く餘の武者の向ふべきに非ず。橋を引れ、河を阻たればとて、目にかけたる敵を見捨て、時刻をへるならば、芳野法師奈良法師參集て、ゆゝしき大事。此の川は近江湖水の末なれば、學事更にあるべからず。武藏と上野との境に利根川と云ふ大河あり。其にはよも過じ物を、昔秩父と足利と仲惡て度々合戰しけるに、寄時には瀨を蹈み舟に乘て渡けれども、軍に負て落けるには舟にも乘らず淵瀬を叢事なし、され共馬も殺さず人も死なず。又足利より秩父へ寄せけるに、上野の新田入道を語て、搦手に愚む、大手は古野杉の渡をしけり、搦手は長井の渡と定めたりける程に、秩父に舟を破れて、新田入道河の端に引へたり。

姓氏家系大辞典 第1巻 53コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

この名字の人々

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