立石
たていしTateishi
全国568位 ・ 約3.5万人
立石(たていし/たていわ/たてし/ついし)は、『和名抄』が筑前国下座郡に立石○を収めて「多天之」と注記し、また若狭に立石庄・立石新庄がある。
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基本情報
- 読み
- たていし
- ローマ字
- Tateishi
- 全国順位
- 全国568位
- 推計人数
- 約3.5万人
- 全国比率
- 日本人のおよそ0.028%
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
立石をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Tateishi読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 筑前国(福岡県)
- 若狭国(福井県)
- 武蔵国(東京都・埼玉県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
立石(たていし/たていわ/たてし/ついし)は、『和名抄』が筑前国(福岡県)下座郡に立石○を収めて「多天之」と注記し、また若狭(福井県)に立石庄・立石新庄がある。そのほか伊勢(三重県)・武蔵(東京都・埼玉県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)・岩代(福島県)・越前(福井県)・豊前(福岡県・大分県)・肥後(熊本県)・壱岐(長崎県)などにこの地名がある。 【1】大友氏族 ― 豊後国(大分県)速見郡の立石邑から起こった。大友系図に「親能―筑井親茂(能直の弟)」の庶流に立石氏を収める。 【2】筑後(福岡県)の立石氏 ― 高良山の天文の検地帳に立石右近が見える。 【3】対馬(長崎県)・壱岐の立石氏 ― 壱岐国壱岐郡に立石邑があり、関係があるか。応永二十六年六月、朝鮮の兵が対馬を侵したとき、立石氏らがこれを討って大いに破った(『宗氏家譜』)という。また立石盛昌・立石八郎などがある。 【4】漆間姓 ― 美作国(岡山県)の豪族で、神武天皇の御兄・稲飯命の子孫と称し、伝えていうには「稲飯命の十二世の孫・豊振宿禰は神功皇后の元年十月、三韓征伐に戦功があった。豊振より六世の漆島宿禰は、雄略天皇十八年秋八月、三韓が貢がなかったので、大斧手物部宿禰と漆島師臣宿禰にこれを討たせた。しかし九州の地に内乱があったので、日向国(宮崎県)に県を置き、漆島師臣をその長として県主とした。 十一代の孫・県主で肥後大丞兼宇佐権大宮司から七代を経て、立石五郎左衛門漆間元邦に至り、醍醐天皇の延喜年中、従五位上に叙されて宮内少輔に任じ、作州苫田郡の大野・神戸・稲岡の三庄を領して神戸太夫と称した。これを作州立石の初代とする。その子・立石播磨頭漆間盛国は天慶九年に従五位上に叙され、盛国の弟・盛栄は天暦四年に従五位上に叙されて左衛門督に任じた」……(この先は引用が閉じないまま途切れている)
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
立石タデイシタテイハタテシタツイシ和名抄、筑前國下座郡に立石〓を收め、多天之と註し、又若狹に立石庄、立石新庄あリ。その他、伊勢、武藏、信濃、上野、岩代、越前、豐前、體後、壹岐等に此の地名存す。 1大友氏族豐後國速見郡立石邑より起る。大友系圖に「親能-築井親茂(能直弟)」の庶流に立石氏を收む。 2筑後の立石氏高良山天文の撿地帳に立石右近·見ゆ。 3對馬壹岐の立石氏壹岐國壹岐郡に立石邑あり、關係あるか。應永二十六年六月、朝鮮の兵·對馬に寇す、立石氏等之を討ち、大いに之を破る(宗氏家譜)と。又立石盛昌、立石八郞等あり。漆間姓美作國の豪族にして、神武天皇々兄稻飯命の裔と稱し、傳へ云ふ「稻飯命十二世孫豊振宿關は、神功皇后の元年十月、三韓征伐に戰功あり。豐振より六世漆島宿禰は、雄略天皇十八年秋八月、三韓·貢せず、故に大斧手物部宿禰、漆島師臣宿禰をして、之を打たしむ。されど九州の地に内亂ありしかば、日向國に縣を置き、漆島師臣をして、その長たらした、縣主と爲す。十一代の孫縣主肥後大丞兼字佐權大宮司より七代を經て、立石五郞左衞門漆問元邦に至り、醱醐天皇延喜年中、從五位上に叙し、宮内少輔に任じ、作州苦田郡の大野、神戶、稻岡の三庄を領し、神戶太夫と稱す。之を作州立石の初代とす。其の干立石播部頭漆間盛國、天慶九年に從五位上に叙せられ、盛國の弟盛榮は、天曆四年、従五位上に叙せられ、左衞門督に任ず。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ読みの名字
立石と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
立石に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「立」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が立石の前後にある名字です。
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