寺崎

てらさきTerasaki

全国1011位 ・ 約1.8万人

寺崎(てらさき)は、上総・常陸・陸前・羽後などにこの地名がある。

この名字はまだ図鑑に載っていません

基本情報

読み
てらさき
ローマ字
Terasaki
全国順位
全国1011位
推計人数
約1.8万人
全国比率
日本人のおよそ0.015%
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

寺崎をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Terasaki読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 上総国(千葉県)
  • 陸前国(宮城県・岩手県)
  • 羽後国(秋田県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

寺崎(てらさき)は、上総(千葉県)・常陸(茨城県)・陸前(宮城県・岩手県)・羽後(秋田県)などにこの地名がある。 【1】桓武平氏葛西氏族 ― 陸前国桃生郡寺崎邑から起こる。「葛西○重の玄孫・親信の子・親長を祖とする」といい、また「伯耆前司○親の末男・彦九郎○次の後で、桃生郡寺崎を領していたが、十代・刑部大輔常○に至って磐井郡流庄峠邑に居城し、常○の弟・左近将監明○は同荘楊生村に拠った」ともいう。「葛西」「千葉」「大槻」などの各項を見よ。 氏人は、明応八年の薄衣状に「寺崎下野守は千厩の辺りを出て奥玉に至り、日夜火を東山に放ち、海浜所々の城塁もおのずから破れた」とある。また天正七年三月七日の文書に寺崎石見守(「葛西記」)があり、天正十八年には晴信に従って佐沼に立て籠った。 【2】常陸の寺崎氏 ― 「新編国志」に「寺崎。新治郡寺崎村から出た(今の茨城郡)。寺崎出羽は笠間幹綱に仕え、後に佐竹義重に仕えて秋田に赴いた」と見える。 【3】越中(富山県)の寺崎氏 ― 康暦の頃、桃井氏の将に寺崎備中守があった。「三州志」の射水郡守山城(二上庄)の項に「応安四年七月、桃井直常が石動山の衆徒と党を結び、斯波義将の本城・守山を攻めた。また度暦二年の頃、桃井の将・寺崎備中守が拠った」とある。 また願海寺城(倉垣庄願海寺村領)の項に「謙信の麾下に寺崎民部左衛門があり、天文二十一年、婦負郡井田城主・飯田利忠と争った。その後、天正二年、畠山義隆が毒殺され、その子・義春が三歳で家を継いだ。諸臣の不和につけこみ、願海寺の寺崎民部左衛門らが大将となって能登(石川県)の二宮まで討ち入ったことが『長家伝』に見える。天正八年七月六日、信長公は寺崎を召し上らせ、江州(滋賀県)佐和山で誅した。民部左衛門の子・喜六郎、および民部左衛門の姉の子・石崎平馬らも、ともに誅せられた」と見える。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

寺崎テラサキ上總、常陸、陸前、羽後等に此の地名存す。 1桓武平氏葛四氏族陸前國桃生郡寺崎邑より起る。「葛四〓重の玄孫親信の子親長を祖とす」と云ひ、又「伯書前司〓親の末男彦九郞〓次の後にして、桃生郡寺崎を領せしが、十代刑部大輔常〓に至リ、磐井郡流庄峠邑に居城し、常〓の弟左近將監明〓は同莊楊生村に據る」とぞ。葛四.千葉、大槻等の各條を見よ。氏人は明應八年の薄衣狀に「寺崎下野守、千廐邊を出で、奧玉に至リ、日夜火を東山に放つ、則ち海濱所々の城壘、自ら破る矣」と。又天正七年三月七日文書に寺崎石見守(葛四記)あり、天正十八年晴信に從ひて佐沼に立籠る。 2常陸の寺崎氏新編國志に「寺崎。新治郡寺崎村より出づ(今の茨城郡)。寺崎出羽は笠間幹綱に仕ふ、後佐竹義重に仕へ秋田に赴く」と見ゆ。 3越中の寺崎氏康曆の比、桃井氏の將に寺崎備中守あり。三州志、射水郡守山城(二上庄)條に「應安四年七月、桃井直常·石動山の衆徒と黨を結び、斯波義將の本城守山を攻む。又度曆二年の頃、桃井の將寺崎備中守·據れり」と。又願海寺城(倉垣庄願海寺村領)條に「謙信の麾下寺崎民部左衞門居り、天文二十一年、婦負郡井田城主飯田利忠と聞ふ。その後、天正二年、畠山義隆·毒殺に逢ひ、其の子義春·三歲にて嗣立す。諸臣不和を伺ひ、願海寺の寺崎民部左衞門等·大將にて、能登の二宮まで討入ること、長家傳に見ゆ。八年七月六日、信長公·寺崎を召しのぼせ、江州佐和山にて誅す。民部左衞門が子喜六郞、及び民部左衞門姉の子·石崎平馬等、共に誅せらる」と見ゆ。

姓氏家系大辞典 第4巻 243コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

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