亀田

かめだKameda

全国576位 ・ 約3.5万人

亀田(かめだ)は、越後・羽後などにこの地名がある。

1件の公開家系図に 6人

基本情報

読み
かめだ
ローマ字
Kameda
全国順位
全国576位
推計人数
約3.5万人
全国比率
日本人のおよそ0.028%
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

亀田をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Kameda読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 越後国(新潟県)
  • 羽後国(秋田県)
  • 加賀国(石川県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

亀田(かめだ)は、越後(新潟県)・羽後(秋田県)などにこの地名がある。 【1】度会姓 ― 伊勢外宮の社家で、外宮権禰宜の家筋書に「亀田。度会康久の子孫、云々。福井・福島・村山などは皆、亀田末久から分かれる」とある。また外宮地下権禰宜家の系図に「亀田(末○)度会、飛鳥二十五世の孫の裔」「(同じく末生)飛鳥二十一世の孫・康光の男の裔」……(この先は行が崩れている) 【2】加賀(石川県)の亀田氏 ― 『三州志』河北郡の殿館(井上庄の南、森下村の領内にある)の条に「一向宗徒(本願寺門徒)の巨魁・亀田大隅岳信(初名は小三郎)は河北郡小坂の辺りを押領し、ここに館を構えてその威が盛んであった。(ここに別項「カメジリ」「カメダ」の見出しの断片が紛れ込む) 南越の朝倉氏が加州を併呑しようとして密かに岳信に通じた。それによって岳信は松任の城主・鏑木右衛門大夫を謀って女婿とし、鏑木父子を森下へ迎え、偽ってこれを殺した。この時、岳信の子・半左衛門は柴田勝家に仕えて溝口と改姓し、勝家滅亡の時に越前(福井県)で殉死したという。 『政春古兵談』に『岳信は武勇の達者で、勝家の手に従わなかった。勝家は和談をして、溝口半作(半作は高綱である。初名は千熊、後に大隅(鹿児島県)と改め、法体して鉄斎)を人質に遣わして礼をした』とある。また森下城を、盛政が平野甚右衛門を先鋒の将として急に攻め落としたとある。 また一書に『天正三年、勝家が北庄に在城の時、盛政は尾山城にあって、溝口牛左衛門の子・千熊高綱を使いとして岳信を偽り招き、切腹させた。岳信は切腹の時、千熊の勇気を賞して介錯をさせ、岳信の女婿とすることを約して亀田の姓を譲った。よって勝家の滅亡後、千熊は亀田大隅と姓名を改め、岳信の遺言に従った』という(金沢の染工・亀甲屋奥助の先祖は岳信の実子だという。また森下邑の長・金右衛門も岳信を祖とするという)」とある。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

龜田カメダ越後、羽後等に此の地名あリ。|度會姓伊勢外宮の社家にして、外宮權禰宜家筋書に「龜田、度會康久の後云4福井、福島、村山等、皆龜田末久より分る」とあり。又外宮地下懺禰宜家系血系帳に田(末邸)度會、飛島廿五世孫斎。(同末生)、飛鳥廿一世孫康光男裔。……2加賀の亀田氏三州志、河北郡殿館(在井上庄南森下村頷)條に「釋賊(本願寺カメジリ前條氏に同じ。カメダ越後、羽後等に此の地名あ門徒)の巨魁亀田大隅岳信(初名小三郎)は河北郡小坂邊を押領し、此に館して其の威隆ん也。南越の朝倉氏·加州を併呑せんと、密に岳信に通ず。因て岳信·松任の城主鑛木右衞門大夫を謀りて女婿とし、鏑木父子を森下へ迎へ、佯りて之を殺す。此の時岳信の子半左衞門·勝家に仕へ、溝口と改姓し、勝家滅亡の時、越前にて殉死すと云ふ。政春古兵談にローム信·武勇の達者にて、勝家の手に從はず。勝家和談を爲し、溝口半作(半作は高綱也初名千熊、後に大隅と改め、法躰して鐵齋)を人質に遺はし、禮を爲す』とあり。又森下城を盛政より、平野甚右衞門を先蜂の將として、急に攻落すとあり。又一書に『天正三年、勝家·北庄在城の時、盛政尾山城に在りて、溝口牛左衞門の子千熊高網を使として、岳信を伴り招きて切腹せしむ。岳信·切腹の時、千熊の勇氣を賞し、介錯を爲さしめ、岳信の女婿を約し、龜田の姓を讓る。よりて勝家藏後、千熊は龜田大隅を姓名を改めて、岳信の遺言に從ふ』と也(金澤染工龜甲屋奥助の先祖は岳信の實子也と。又森下邑長金右衞門も岳信を視とすと云ふ)。

姓氏家系大辞典 第2巻 320コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

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