富松
とみまつTomimatsu
全国3749位 ・ 約3,290人
富松(とみまつ)は、 【1】清和源氏足利氏族 ― 摂津国河辺郡(武庫郡)富松荘から起こる。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- とみまつ
- ローマ字
- Tomimatsu
- 全国順位
- 全国3749位
- 推計人数
- 約3,290人
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
富松をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Tomimatsu読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「富松」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
『姓氏家系大辞典』第4巻 327コマに「家紋月文字、丸に二引、一時、五葉菊」とあります。 原典で見る →
図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 摂津国(大阪府・兵庫県)
- 紀伊国(和歌山県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
富松(とみまつ)は、 【1】清和源氏足利氏族 ― 摂津国(大阪府・兵庫県)河辺郡(武庫郡)富松荘から起こる。伝説によれば、足利義晴の三男・富松大和守重晴の後というが、家紋は月文字、丸に二引、一時、五葉菊。 「富松系図」には、武庫郡・莵原郡・有馬郡の三郡の地頭・大和守義晴は尊氏十二代義晴の三男で、義輝・義昭の弟であるとする。重晴は初め富松・八松・草香の三箇荘を与えられ、富松に居城した。天文三年、三郡を増賜されて都合十万余石となり、正四位左中将に任ぜられた。足利を改めて富松と称したのが、この氏の始祖であるという。 京都将軍十三代義輝は治世十六年にして永禄八年、三好のために害され、同九年、義維の長男・義栄が征夷大将軍に任ぜられた。同十一年九月に薨じ、同年、義昭が征夷大将軍に任ぜられた。義昭は初め南都一乗院の門主であったという。 信長はにわかに心変わりし、天正元年、云々。(重晴は)無事に身を退いた。これによって信長は丁重にもてなし、疎略にはしなかった。重晴もまた時勢に順い、官位に相違はなかったという。天正四年八月三日に没し、覚源院殿連山道昭大居士と号した。妻は山科宰相貞通の女で、天正七年六月八日に没し、常光院殿照月妙真尼と号した」とある。ただし疑わしい点が多い。……(中略) 【2】清和源氏多田氏族 ― これも摂津富松から起こる。富松城(立花村富松)は「細川両家記」にみえる。子孫は紀伊国(和歌山県)那賀郡の名族で、「続風土記」勢田邑名家地士・富松助六の条に「その祖を多田太郎貞綱という。多田満仲の末裔で、摂州富松に住した。正慶二年、新田義貞に属して京師で戦死した。その子を富松修理貞時といい、父の戦死の後、当国に来た。時に建武元年である。 貞時七代の孫を富松四郎貞実といい、粉河合戦で戦死した。嫡子を助三郎貞茂といい、次を二郎貞慶といい、次を喜兵衛秀貞という。秀貞は南龍公に仕えて二百石を領した」とある。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
富松トミマツ1〓和源氏足利氏族攝津國河部郡武庫郡)富松庄より起る。傳說に據れば、足利義晴の三男富松大和守重晴の後也と云ふ。家紋月文字、丸に二引、一時、五葉菊。富松系圖に一武庫郡、蒐原郡、有馬郡の三郡地頭·大和守義晴は尊氏十二代義晴の三男にして、義麺、義昭の弟也。重晴·始め富松、八松、草香の三个庄を附奥せられ、富松に居城す。天文三年、三郡を增賜せられ、都合十萬餘石たり。正四位、左中將に任ぜらる。足利を改めて富松と稱す、氏の始祖也。京都將軍十三代義輝·治世十六年にして、永祿八年、三好の爲に害せられ、同九年義維の長男義榮·征夷大將軍に任ぜらる。同十一年九月薨、同年義昭·征夷大將軍に任ぜらる。始め南都一乘院の門主也、云々。信長忽に心變り、天正元年、云々。無事に身退く。是を以つて信長·慇懃にして疎ならず。重晴も亦相順ひて官錄·相違なき者也。天正四年八月三日卒、號覺源院殿連山道昭大居士。妻は山科宰相貞通の女、天正七年六月八日卒、號常光院殿照月妙眞尼后」とあり。疑·多し。……2〓和源氏多田氏族これも攝津富松より起る。富松城(立花村富松)は細川兩家記に見えたり。子孫·紀伊國那賀郡の名族にして、續風土記、勢田邑名家地士·富松助六條に「其の祖を多田太郎貞綱といふ。多田滿仲の末靑にして、攝州富松に住す。正慶二年、新田義貞に屬し、京師に戰死す。其の子を富松修理貞時といふ、父戰死の後、當國に來る、時に建武元年なり。貞時七代の孫を富松四郞貞實といふ、粉河合戰に戰死す。嫡子を助三郞貞茂といひ、次を二郞貞慶といひ、次を喜兵衞秀貞といふ。秀貞·南龍公に仕へて二百石を領す。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ読みの名字
富松と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
富松に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「富」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が富松の前後にある名字です。
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