勝間田
かつまたKatsumata
全国3275位 ・ 約3,940人
勝間田(かつまた)は、遠江・美作に勝田郷があり、かつまたである、かつたの項に述べている。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- かつまた
- ローマ字
- Katsumata
- 全国順位
- 全国3275位
- 推計人数
- 約3,940人
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
勝間田をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Katsumata読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 遠江国(静岡県)
- 美作国(岡山県)
- 信濃国(長野県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
勝間田(かつまた)は、遠江(静岡県)・美作(岡山県)に勝田郷があり、かつまたである、かつたの項に述べている。そのほか、大和(奈良県)にこの地名が存する。 【1】勝間田(無姓) ― 宝亀三年二月紀に、これより先、従五位上・掃守王の男である小月王が、姓を勝間田と賜って信濃国(長野県)に流されたとある。……(中略)貶姓の一つと見るべきである。 【2】藤原南家工藤氏流 ― 遠江国榛原郡勝間田荘から起こる。この地は「和名抄」の勝田郷の地で、また「後風土記」に「勝間村に勝間神社があり、木花咲耶比咩命を祀る」とし、佐野郡家代福来寺の応安二年写経跋に「遠江国勝田荘鹿島宮」とある。 応仁二年細川勝元文書に「勝間田荘地頭職・勝間田越前守」とある。「風土記伝」に勝田村が存すると(「地理志料」)。 勝間田氏は「保元物語」に「遠江国には、かつまた云々」とあり、「東鑑」治承五年閏二月十七日条に「勝間田平三成長」、文治二年四月二十一日条に「勝田三郎成長、去る六日玄蕃助に任ず」、建久六年十二月五日条に「勝田主計助成長、召し上げられる。当国府の光堂において闘乱の疵に及んだゆえである」とある。また巻四十に勝田兵庫助が見える。 時代が下って「応永記」に「遠江国住人・勝間田遠江守」とある。……(中略)今川義忠は五百余騎を二手に分けて、横地・勝間田の城を取り巻き、七日にして両人とも討死した。しかし義忠も、その帰路の塩見坂で横地・勝間田の余類のために流れ矢に当たって卒した。今川の項を参照。 また同じ頃、勝間田元長があり、山名(周智)郡飯田城(飯田村飯田山)に拠った。「この城は始め○詳らかでない。「東鑑」所載の遠江国住人・勝田玄善助成長の裔孫である勝間田越前守元長(之長)がこの地を領した。しかるに三条中納言家の代官・山内駿河守がこの地に住んで渡さなかった。よって応仁二年十月十一日、細川勝元が令を下して元長に属させた。 元亀元年、山内大和守が徳川氏と戦って戦死し、落城した。同三年九月、武田氏がこの城を奪った。天正元年六月、徳川氏がまた塞を構えた」とある。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
勝間田カツマタ遠江、美作に勝田郷あリ.カツマタなり、カツタ條に云へリ。そ,他、大和に此の地名存す。 1勝間田(無姓)實龜三年二月紀に一元より先き從五位上掃守王の男小月王、姓を勝間田と賜ひて、信濃國に流け。……貶姓の一と見るべし。 2藤原南家工藤氏流遠江國蓁原郡勝間田莊より起る。この地は和名抄勝田〓の地にして、又後風土記に「勝間〓勝間神社あり、木華咲耶比咩命を祀ると佐野郡家代福來寺應安二年寫經跋に一遠江國勝田莊鹿島宮。」應仁二年細川勝元文書に「勝間田莊地頭職勝間田越前守。」風土記傳に勝田村存すと、(地理志料)。勝間田氏は保元物語に「遠江國には、かつまた云々、」東鑑、治承五年閏二月十七日條に「勝間田平三成長、」文治二年四月廿一日條に「勝田三郞成長、去六日任玄蕃助、」建久六年千二月五日條に「勝田主蓄助成長·召上らる。當國府光堂に於て鬪亂な傷に及ぶの故也、」と。又卷四十に勝田兵庫助見ゆ。下りて應永記に「遠江國住人勝間田遠江守。」……今川義忠·五百餘騎を二手に分も、橫地勝間田が城を取卷、七日にして兩人共に討死す。されど義忠も、その歸路鹽見坂にて橫地勝間田の餘類の爲に流矢に中つて卒す。今川條參照。又同じ頃、勝間田元長あり、山名(周智)郡飯田城(飯田村飯田山)に據る。「當城は始藝未詳。東鑑所載遠江國住人勝田玄善助成長の裔孫詩間田越前守元長(之長)此の地を領す。しかるに三條中納言家代官山内駿河守、此の地に住みて渡さず。よつて應仁二年十月十一日、細川勝元令を下して元長に屬せしむ。元亀元年、山内大和守·德川氏と戰ひて戰死し落城す。同三年九月武田氏當城を奪ふ。天正元年六月德川氏また寒を構ふ」となり。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ読みの名字
勝間田と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
勝間田に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「勝」の字を含む名字
「間」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が勝間田の前後にある名字です。
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