目結

間宮

まみやMamiya

全国1615位 ・ 約9,860人

間宮(まみや)は、 【1】佐々木氏族 ― 伊豆国田方郡間宮村から起こるという。

この名字はまだ図鑑に載っていません

基本情報

読み
まみや
ローマ字
Mamiya
全国順位
全国1615位
推計人数
約9,860人
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

間宮をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Mamiya読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

この名字に記録のある家紋

『姓氏家系大辞典』の「間宮」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。

『姓氏家系大辞典』第6巻 16コマに「家紋角四目結、五三の楊」とあります。 原典で見る →

図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。

家紋・紋章の調べ方(国立国会図書館 リサーチ・ナビ) →

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 伊豆国(静岡県)
  • 相模国(神奈川県)
  • 豊前国(福岡県・大分県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

間宮(まみや)は、 【1】佐々木氏族 ― 伊豆国(静岡県)田方郡間宮村から起こるという。……(中略)家紋は角四目結・五三の桐。この氏の人は「相州(神奈川県)兵乱記」に「神奈川の住人、間宮のなにがしと名乗って云々」、また高野台合戦に「間宮云々」とある。また小田原の戦いに間宮豊前守好高(「北条」の項を参照)が伊豆田方郡山中城に籠った。山中に間宮豊前康俊の五輪塔があり、同人か。そのほかは次項を見よ。 康俊の家は系図に「豊前守信盛(早雲・氏綱に仕える、宗三)―豊前守信元(光林、弟に左衛門信次・兵庫頭がある)―豊前守廉俊(伊豆山中城の守将、天正十八年戦死。弟に若狭守綱信・兵部少輔・監物などがある)―彦三郎康次、弟の新左衛門康信(天正十年甲州(山梨県)で討死、弟の善十郎は相州三瀬で討死、また造酒丞信高・伝右衛門元重などがある)―新左衛門直元(家康の家臣、千石)」と見える。信盛らのことは次項を見よ。 【2】武蔵(東京都・埼玉県)の間宮氏 ― 橘樹郡川崎塁(砂子町)は宗三寺境内の辺りという。前項の間宮豊前守信盛が居住した所で、墓は宗三寺本堂の南に当たる樹下にある。正面に「当寺(宗三寺)開基・雲谷宗三居士」と刻み、左右に「宇多天皇皇子敦実親王十六代佐々木間宮豊前守入道源康信」とある。 また側面に「天和三癸亥年三月二十九日施主間宮孫兵衛盛重、同金五郎盛正」と彫る。この盛重・盛正は父子で、ともに大番衆であったが、盛正はのちに乱心して家は廃絶した。ここに豊前守の名乗りを廉信と記したのは誤りである。信盛の孫を三郎右衛門康信といった(「風土記稿」)。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

間宮マミヤ1佐々木氏族伊豆國田方郡間宮邑より起ると云ふ。……家紋角四目結、五三の楊。氏人は相州兵亂記に「神奈川の住人間宮の某と名乘つて云々」、又高野臺合戰に「間宮云々」と。又小田原戰に間宮豐前守好高(北條條參照)·伊豆田方郡山中城に籠る。山中に間宮豐前康俊の五輪塔あり、同人か、その他、次項を見よ。康使の家は系圖に「豐前守信盛(早雲、氏綱に仕ふ、宗三)-豐前守信元(光林、第に左衞門信次、兵庫頭あり)-豐前守廉俊(伊豆山中城守將、天正十八年戰死。弟に若狭守綱信、兵部少輔、監物等あり)-彦三郞廉次、弟新左衞門康信(天正十年甲州討死、弟善十郞は相州三瀨討死、又造酒丞信高、傳右衞門元重等あり)ー新左衞門直元(家康家臣千石)」と見ゆ。信盛等の事は次項を見よ。 2武蔵の間宮氏橘樹郡川崎壘(砂子町)は宗三寺境內の邊なりと云ふ。前項間宮豐前守信盛が居住せし所にして、墓は三宗寺本堂の四南に當れる樹下にあり。面に「當寺(宗三寺)開基·雲谷宗三居士」と刻し、左右に「字多天皇皇子敦實親王十六代佐々木間宮豐前守入道源康信」とあ!!又側面に「天和三癸亥年三月二十九日施主間宮孫兵衞盛重、同金五郞盛正」と彫る。この盛重、盛正は父子にて、ともに大番衆なりしが、盛正·後に亂心して家廢せり。こゝに豐前守が名乘を廉信と記せしは誤なり。信盛が玄係を三郞右衞門康信と云ひしなり(風土記稿)。

姓氏家系大辞典 第6巻 16コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

同じ読みの名字

間宮と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。

同じ漢字を使う名字

間宮に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。

同じくらいの多さの名字

全国順位が間宮の前後にある名字です。

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