丸に扇

三沢

みさわMisawa

全国682位 ・ 約2.9万人

三沢(みさわ)は、『和名抄』の出雲国仁多郡に三沢郷がある。

この名字はまだ図鑑に載っていません

基本情報

読み
みさわ
ローマ字
Misawa
全国順位
全国682位
推計人数
約2.9万人
全国比率
日本人のおよそ0.023%
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

三沢をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Misawa読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

この名字に記録のある家紋

『姓氏家系大辞典』の「三沢」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。

『姓氏家系大辞典』第6巻 53コマに「家紋丸に結梗、丸に疊扇打違」とあります。 原典で見る →

図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。

家紋・紋章の調べ方(国立国会図書館 リサーチ・ナビ) →

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 出雲国(島根県)
  • 甲斐国(山梨県)
  • 武蔵国(東京都・埼玉県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

三沢(みさわ)は、『和名抄』の出雲国(島根県)仁多郡に三沢郷がある。そのほか甲斐(山梨県)・武蔵(東京都・埼玉県)・陸前(宮城県・岩手県)・陸奥(東北地方)などにこの地名がある。 【1】出雲の三沢氏 ― 『大同類聚方』の願業方に「美佐波薬は出雲国三沢の人・川瀬長李の家方」とある。そのほかは次項を参照。 【2】清和源氏木曾氏族 ― 出雲国仁多郡の三沢邑から起こり、同じ邑の鎌倉山城に拠った。『巡拝記』に「三沢氏は木曾義仲の子・清水冠者の裔」と見える。 天文年中、尼子右衛門尉晴久が出雲・石見(島根県)・伯耆(鳥取県)および隠岐(島根県)・美作(岡山県)の五ヶ国の軍士を指揮して毛利元就を退治するため芸州(広島県)吉田郡山へ発向した時、この三沢の城主・三沢三郎左衛門尉為幸が先登に進んで首十三級を得た。しかし尼子が勝利を失った時、為幸は十余騎を従えて元就をうかがい寄ったところ、元就の勇士・井上七郎がこれを見知って押し隔てて相戦い、ついに為幸は討たれた。 その後、晴久が卒して嫡子・義久の代になり、弘治三年、毛利元就がこの国へ発向した時、この城を攻められた。城主の三沢為景・為○の兄弟はもとより毛利家に志を通じていたので、防戦にも及ばず人質を出して軍門に降った(『懐橘談』)。 また名沢家譜に「利久の女子は、出雲仁多郡亀山城主・三沢為○の二子・為房に嫁いだ」といい、また井上古記に雲州三沢三左衛門尉(「井上」の項を参照)、また『安西軍策』に三沢三郎左衛門為幸・三沢蔵人などを載せる。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

三澤ミサハ和名抄、出雲國仁多郡に三澤郷あり。その他、甲斐、武蔵、陸前、陸奥等に此の地名存す。 1出雲の三澤氏大同願業方に「美佐波藥は出雲國三澤人川瀨長李の家方」とあり。その他、次項を見よ。 2〓和源氏木曾氏族出雲國仁多郡三澤邑より起り、同邑鎌倉山城に據る。巡拜記に「三澤氏は木曾義仲の子〓水冠者の裔」と見ゆ。天文年中、尼子右衞門尉晴久·出雲、石見、伯耆、及び陵岐、美作の五ヶ國の軍士を指麾きて、毛利元就を退治せんが爲め、藝州吉田郡山へ發向の時、此の三澤の城主三澤三郞左衞門尉爲幸·先登に進み、首十三級を得たり、然りと雖、尼子勝利を失ひける時、爲幸·十餘騎を從へ、元就を窺ひよりけるを、元就の勇士井上七郞·是を見知りて、押隔てゝ相戰ひ、終に爲幸討たる。その後、晴久·卒して後、嫡子義久が代に成りて、弘治三年、毛利元就·當國發向の時、此の城を攻め玉ふ。城主三澤爲景、爲權の兄弟·素より毛利家に志を通じければ、防戰にも及ばず、人質を出し、軍門へ降りぬ(懷橋談)。又名澤家譜に「利久の女子·出雲仁多郡龜山城主三澤爲〓の二子爲房を婚とす」と云ひ、又井上古記に雲州三澤三左衞門尉(井上條參照)、又安四軍策に三澤三郞左衞門爲幸、三澤蔵人等を載せたり。

姓氏家系大辞典 第6巻 53コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

同じ読みの名字

三沢と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。

同じ漢字を使う名字

三沢に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。

同じくらいの多さの名字

全国順位が三沢の前後にある名字です。

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