三松

みつまつMitsumatsu

ほかの読み: みまつ

全国8025位 ・ 約1,050人

三松(みまつ)は、 【1】百済姓 ― 河内国交野郡の名族で、百済王の裔であり、百済王豊俊に至って三松氏を称したという。

1件の公開家系図に 1人

基本情報

読み
みつまつ ・ みまつ
ローマ字
Mitsumatsu
全国順位
全国8025位
推計人数
約1,050人
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

三松をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Mitsumatsu読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 河内国(大阪府)
  • 摂津国(大阪府・兵庫県)
  • 日向国(宮崎県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

三松(みまつ)は、 【1】百済姓 ― 河内国(大阪府)交野郡の名族で、百済王の裔であり、百済王豊俊に至って三松氏を称したという。その孫に三松俊行があり、子孫は山田村大字中宮に住んで百済王神社に奉仕する。文禄年間に三松俊治が見え、そのほかは「百済」の項を参照。 【2】摂津(大阪府・兵庫県)の三松氏 ― 能勢郡の豪族で、平家清盛の時代、三松刑部左衛門国春があり、柏原村に住んだという。その女・名月姫は能勢蔵人家包の室である。 【3】雑載 ― 「武鑑」延岡内藤藩用人にこの氏を載せ、また京極藩給帳に「百五十石三松文右衛門」を挙げる。そのほか、武藤・日向等に存する。 見松(みまつ)は、前条を参照。また美濃(岐阜県)にあり、清和源氏土岐氏の一族で、土岐系図に「頼芸―頼次(号見松)」と見える。そのほか、武蔵(東京都・埼玉県)・備前(岡山県)・播磨等に存するという。 美松(みまつ)は、前二条を参照。また陸奥(東北地方)にこの氏があるという。 任那(みまな)は、加羅国のことで、垂仁天皇が……(この先は原文の行が崩れていて読み取れない)先帝(崇拝)の御名を賜って、任那国とすると伝える。蓋し御名代部の一種であろう。 【1】任那国司 ― 任那に派遣した国司である。「司」は「タニノミコトモチ」の項、および「日本上代に於ける社会組織の研究」国司制度の項を見よ。文献に見えるものは、雄略紀に「田狭(吉備上道臣)を拝して、任那国司と為す」とあるのを初見とする。 【2】無尸の任那氏 ― 任那族であろう、「姓名録抄」等に見える。次条参照。 三間名(みまな)は、前条を参照。……(この先は原文の行が崩れていて読み取れない)是の時、天皇の崩に会い、すなわち留まって、活目入彦五十狭茅天皇……(この先は原文の行が崩れていて読み取れない)

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

三松ミマツ1百濟姓河内國交野郡の名族にして、百濟王の裔にして、百濟王豐俊に至り、三松氏を稱すと云ふ。其の孫に三松俊行あり、子孫·山田村大字中宮に住して百濟王神社に奉仕す。文祿年間に三松俊治·見ゆ、その他は百濟條參照。 2攝津の三松氏能勢郡の豪族にして、平家清盛時代、三松刑部左衞門國春あり、柏原村に住みしと云ふ。其の女名月姫は能勢蔵人家包の室也。 3雜載武鑑、延岡內藤藩用人に此の氏を載せ、又京極藩給帳に「百五十石三松文右衞門」を擧ぐ。その他、武藤、日向等に存す。見松ミマツ前條參照。又美濃に在り、〓和源氏土岐氏の族にして、土岐系圖に「頼藝-賴次(號見松)」と見ゆ。その他、武藏、備前、播磨等に存すとぞ。美松ミマツ前二條參照、又陸奥に此の氏在りと。任那ミマナ加羅國の事にて、垂仁天皇ウィン先帝(崇拜)の御名を賜ひて、任那國とすと傳ふ。壹し御名代部の一種ならん。 1任那國司任那に派遣せし國司也。司はタニノミコトモチ條、及び日本上代に於ける社會組織の研究、國司制度の條を見よ。物に見えたるは、雄略紀に「田狹(吉備上道臣)を拜して、任那國司と爲さとあるを初見とす。 2無尸の任郡氏任那族ならん、姓名錄抄等に見ゆ。次條參照。三間名ミマナ前條任那國名を負ひしな其の人と爲リを察し、王に非じと知りし〓即ち更に還り、道路を知らず、島浦に留連し、北の方北海を廻り、出雲國を經て、此の國に至る也と。是の時、天皇の崩に會ひ、便ち留りて、活目入彦五十狹茅天皇……

姓氏家系大辞典 第6巻 120コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

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