長嶋
ながしまNagashima
全国1262位 ・ 約1.4万人
長嶋(ながしま)は、肥前・筑後に長島庄が見え、また伊勢・志摩・武蔵・羽前・越後・備前・肥後にこの地名がある。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- ながしま
- ローマ字
- Nagashima
- 全国順位
- 全国1262位
- 推計人数
- 約1.4万人
- 全国比率
- 日本人のおよそ0.011%
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
長嶋をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Nagashima読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「長嶋」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
『姓氏家系大辞典』第4巻 403コマに「家紋一文字の下に左三巴,五三桐」とあります。 原典で見る →
図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 肥前国(佐賀県・長崎県)
- 筑後国(福岡県)
- 志摩国(三重県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
長嶋(ながしま)は、肥前(佐賀県・長崎県)・筑後(福岡県)に長島庄が見え、また伊勢(三重県)・志摩(三重県)・武蔵(東京都・埼玉県)・羽前(山形県)・越後(新潟県)・備前(岡山県)・肥後(熊本県)にこの地名がある。 ……(中略)また「菊池系図」に「菊池次郎武房―女(長島太郎種武の妻)」と見える。 【2】源姓 ― 肥前国長島庄より起こる。「鎮西要略」天授二年七月の条に「探題が杵島郡に到って長島・潮見氏を伐つ」と見え、子孫は大村藩に存する。 【3】筑後の長島氏 ― 下妻郡中牟田村の館に拠る。国史に「長島八郎助高の居館の跡という。『寛延記』にいう、六十六町七反……(この先は原文の行が崩れていて読み取れない)……の領主である。宅の坤(南西)の隅に小祠があり、俗に助高天神と呼ぶ。木像二体があり、助高・盛高の兄弟を祭るという」と見える。 【4】日下部姓 ― 但馬発祥で、家伝に「日下部百足の後裔」という。百足は日下部氏の大祖・表米の子・都牟子の第二子である。子孫は武蔵に存し、家紋は一文字の下に左三つ巴、五三の桐。……第八項を見よ。 【5】伊勢長島殿 ― 桑名郡長島に拠った一向門徒の頭で、元亀二年五月、一向宗願証寺の僧澄意が檀徒の強勇な者を誘って乱を起こし、伊藤重晴(長野族)を逐ってここに拠り、自ら長島殿と称して威を近国に振るった。連年、地の険を恃んで暴虐がひどく、織田氏の威令も全く行われなかった。 天正二年七月、信長が大軍を発してついにこれを鎮め、次いでこの地を滝川一益に賜い、北勢五郡を管させた。滝川の項を見よ。この願証寺は一に顕証寺ともいう。 「伊勢名勝志」に「桑名鍋屋町にある。天文の頃、蓮如の十二男・蓮淳の開基で、初め長島に創建し長島山と号した。元亀二年、四世証意が長島城に拠り織田信長に抗した。その子顕忍が跡を継いで居り、天正二年に顕忍は自殺した。」 「信長が来て攻め、その子准恵は免れて民家に養われた。成長して再び願証寺を今の地に営んだ。正徳の頃、宗派を改め、寺はついに廃し、宝暦の頃、本堂を一身田恵修寺に移した」(「桑名志」「五鈴遺響」「勢国見聞集」)という。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
長嶋ナガシマ肥前、筑後に長島庄·見え、又伊勢、志摩、武藏、羽前、越後、備前、屍後に此の地名あり。……又菊池系圖に「菊池次郞武房-女(長島太郞種武妻)」と見ゆ。 2源姓肥前國長島庄より起る。鎭西要略.天授二年七月條に「探題杵島郡に到りて、長島、潮見氏を伐つ」と見え、子孫大村藩に存す。 3筑後の長島氏下妻郡中牟田村舘に據る。國史に「長島八郎助高が居館の跡と云ふ。寬延記に云ふ、六拾六町七反二丈體を安置す。の領主也。宅の坤隅に小祠あり、俗に呼んで助高天神とす。木像二蓋し助高、盛高兄弟を祭ると云ふ」と見中ロ4日下部姓但馬發祥にして、家傳に「自下部百足の後裔」と云ふ。百足は日下部氏の大祖表米の子都牟子の第二子なり。子孫武藏に存す、家紋一文字の下に左三巴,五三桐。……第八項を見よ。 5伊勢長島殿桑名郡長島に據りし一向門徒の魁神にして、元亀二年五月、一時宗願澄寺の僧澄意·檀徒の强勇なるものを誘ひて亂を爲し、伊藤重晴(長野族)を逐ひて此に據り、自ら長島殿と稱し、威を近國に振ひ、連年、險を恃み、抄暴甚しく、織田氏の威令·一も行はれざりき。天正二年七月、信長大軍を發し、遂に此を磁し、次いで此の地を瀧川一益に賜ひ、北勢五郡を管せしむ。瀧川條を見よ。この願證寺は一に顯證寺とも云ふ。伊勢名勝志に「桑名鍋屋町に在り。天文中、曾蓮如の十二男蓮淳の開基にして、始め長島に創建し、長島山と號す。元亀二年、四世證意·長島城に據り、織田信長に抗す。其の子顯忍·權で居る。天正二顯忍自殺す。年、信長來り攻め、其の子准惠·免れて民家に養はる。長ずるに及びて、再び願證寺を今の地に營す。正德中、宗派を更め、寺終に廢す、寶曆中、本堂を一身田惠修寺に移す」(桑名志、五鈴遺響、勢國見聞集)とぞ。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ読みの名字
長嶋と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
長嶋に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「長」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が長嶋の前後にある名字です。
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