脇坂

わきさかWakisaka

全国1349位 ・ 約1.3万人

脇坂(わきさか)は、物部姓で、近江国浅井郡脇坂荘から起こる。

1件の公開家系図に 8人

基本情報

読み
わきさか
ローマ字
Wakisaka
全国順位
全国1349位
推計人数
約1.3万人
全国比率
日本人のおよそ0.010%
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

脇坂をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Wakisaka読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 近江国(滋賀県)
  • 美濃国(岐阜県)
  • 日向国(宮崎県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

脇坂(わきさか)は、物部姓で、近江国(滋賀県)浅井郡脇坂荘から起こる。初め物部、後に藤原に改めた。浅井秀政の三男生政の孫○政(一字不明)がこの地の下司となり、この氏を称したという。その後、五世安政の子甚内安治は織田・豊臣に歴仕し、賤ヶ岳の七本槍の一人として名がある。 【2】清和源氏説 ― 前項の氏はまた一説に美濃土岐氏の一族で、安明の男安治に至って天下に名を挙げたという。 【3】藤原姓 ― 前二項を参照。安治は「豊鑑」巻三に脇坂中務少輔と載せ、寛永・寛政系譜は藤姓に収め、外介安明から系がある。 また「藩翰譜」には「中務少輔藤原安治は、近江国脇坂の庄の住人、脇坂安明の男である(安明の名は外介という)。安明は織田殿に随い、永禄十一年、本国観音寺の戦いに討死した。 翌年(永禄十二年)、明智日向守光秀が信長の仰せを受け、丹波国(京都府・兵庫県)へ発向して赤井と戦った。安治はその頃甚内と申して、生年十六歳、光秀の手に属し、良き敵を討って首を取った。これが初めて浅井の郡での戦いで、羽柴殿の見参に入った。 元亀元年秋、織田殿が摂津国(大阪府・兵庫県)の戦いで利が無いと聞いて、秀吉は近江国を立って信長の陣に馳せ参じた。幼い者はことごとく跡に留められたが、安治一人がひそかに随って参った。秀吉は○(原文「怒り給ひ」とあるが、文意が通らず崩れているとみられる)、その場にあった馬一匹を賜ったという。 天正四年、織田殿が丹羽五郎左衛門尉長秀を奉行として、安土の城を構えられた。○(原文「右垣」、判読しがたい)の御料所に、御家人らが大石を数多く献じた。丹羽の下部らが、秀吉が参らせられた大石を盗み取ろうとした。安治はしたたかに行き合い、長秀の侍一人を取って実として帰った……(引用はここで途切れている)

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

脇坂ワキサカ物部姓近江國淺井郡脇坂庄より起30初め物部、後に藤原に改む。淺井秀政の三男生政の孫〓政·此の地の下司となり、此の氏を稱すと云ふ。其の後、五世安政の子甚內安治·織田、豐臣に歷仕し、賊ケ嶽の七本館として名あり。 2〓和源氏說前項氏は又一に美濃土岐氏の族にして、安明の男安治に至り、天下に名を畢ぐと云ふ。 3藤原姓前二項參願。安治は豐鑑卷三に脇坂中務少輔と載せ、寛永、寛政系譜、藤姓に收め、外介安明より系あり。又藩輸譜に「中務少輔藤原安治は、近江國脇坂の庄の住人、脇坂安明が男也(安明·名は外介と云ふ)。安明·織田殿に隨ひ、永歐十一年本國觀音寺の戰に討死す。明十二年、明智日向守光秀·信長の仰を承り、丹波國に發向して赤井と戰ふ。安治·其の頃は甚内と申して、生年十六歲、光秀が手に屬して、能き敵討つて首取る。此ウルト.始めて淺井の郡にして、羽柴殿の見參に入る。元龜元年秋、職田殿·振津國の戰ひ利あらずと聞いて、秀吉·近江國を立つて信長の陣に馳せ參る。幼き者をば悉く跡に止めらる、安治一人·密かに隨ひ參りたり、秀吉うへには怒り給ひめのをを現だる馬一匹をぞ給ふたりける。天正四年、織田殿·丹羽五郞左衞門尉長秀を奉行として、安土の城を搆へ給ふ。右垣の御料に、御家人等·大石數多獻る。丹羽が下部等·秀吉のまらせられし大石を盜み取らんとす。安治はしたなく行合ひ、長秀が侍一人·取つて實として歸りける。

姓氏家系大辞典 第6巻 467コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

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同じ読みの名字

脇坂と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。

同じ漢字を使う名字

脇坂に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。

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全国順位が脇坂の前後にある名字です。

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