日高
ひだかHidaka
全国347位 ・ 約6.2万人
日高(ひだか/ひだ)は、紀伊国に日高郡があり、『和名抄』は「比太加」と注記する。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- ひだか
- ローマ字
- Hidaka
- 全国順位
- 全国347位
- 推計人数
- 約6.2万人
- 全国比率
- 日本人のおよそ0.050%
- 県内ベスト5
- 宮崎県(2位)
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
多い都道府県
「日高」が県内ベスト5に入っている都道府県です。色の濃さは県内の占率を表します(ベスト5に入らない県は、数字が公表されていないため無色です)。
- 〜1%
- 1〜1.5%
- 1.5〜2%
- 2〜3%
- 3%〜
- データなし
県ごとの数字を見る
| 都道府県 | 県内順位 | 占率 |
|---|---|---|
| 宮崎県 | 2位 | 1.44% |
都道府県別データについて
都道府県別の順位・占率は、明治安田生命「全国同姓調査」(2018年8月8日発表、同社の契約者約655万人が母集団)で公表されたベスト5です。国勢調査ではないため、実際の県内人数の順位とは異なることがあります。 調査結果(PDF)を見る →
ローマ字で書くと
日高をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Hidaka読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「日高」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
鷹の羽
鷹の羽根を二枚、斜めに組み違えた図案。
『姓氏家系大辞典』第5巻 230コマに「紋を鷹羽章」とあります。 原典で見る →
図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 紀伊国(和歌山県)
- 豊後国(大分県)
- 陸中国(岩手県・秋田県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
日高(ひだか/ひだ)は、紀伊国(和歌山県)に日高郡があり、『和名抄』は「比太加」と注記する。後に日高庄が起こった。また豊後国(大分県)にも日高郡があるが、これは日田である。「日田」の項を参照。そのほか陸中(岩手県・秋田県)・安芸(広島県)などにもこの地名がある。 【1】清和源氏 ― 薩摩(鹿児島県)・大隅(鹿児島県)の名族で、伝えていうには「清和天皇は文徳天皇の皇子で、母は藤原良房公の女。八人の皇子があり、……(この行は原文が崩れていて読み取れない)忠長を祖とする○親王は第五皇子で、武○・信濃(長野県)・伊○などの守を歴任された。内親王織子は貞○親王の皇女で、経基王を生んだ。 経基王は上総守となり、六孫王と称して、初めて源姓を賜った。その子・多田満仲は摂津国(大阪府・兵庫県)多田郡に住んで多田氏と称し、屋敷内に多田院を建立した。六子があり、その二男・源珍は多田法眼源賢という。法眼から三代のちの裔・義正は紀州日高郡七百五十町を領し、安倍貞任を追討したとき、日光権現が神矢を授ける夢のお告げによって日高氏と称し、幕紋を鷹の羽とし、嫡流は一羽、庶流は二羽と定めた」という。 次に「義正に二子があり、二男の国則は別当の婿であることから『国』の字を一家の譲り名とし、三良禅師といった。国則にも二子があり、嫡男の則高は勝次郎といい、その一子を小太郎則村といった。則村に二子があり、長男の高道は三尾十郎という。この高道にも二子があって、末子は早世した。長男の三郎右衛門尉高成は戦死する前にすでに一子をもうけており、五郎重成という。その男・親成は小太郎といい、建久五年(甲寅)に薩摩国へ下向した」とある(原文はここで引用文の閉じが失われている)。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
日高ヒダカヒダ紀伊國に日高郡あり〓、和名抄に比太加と註し、後に日高庄起る。又豐後國にも日高郡あれど、こは日田なり、日田條を見よ。その他、陸中、安藝等にも此の地名存す。 1〓和源氏薩隅の名族にして、傳へ云ふ「〓和天皇は文德天皇の皇子にして、母は藤原良房公の女。八皇子あり、貞權布氏氏のして、忠長を祖親王は第五皇子にして、武君、信濃、伊理等の守に歷任せらる。内親王織子は又貞繼親王の皇女にして、經基王を生む。經基王は上總守となり、六孫王と稱し、始めて源姓を賜ふ。其の子多田滿仲·攝津國多田郡に住し、多田氏と稱へ、庭内に多田院を建立す。六子あり、其の二男源珍·多田法眼源賢と云ふ。法眼三代の齋義正·紀州日高郡七百五十町を領し、阿部貞任を追討の際、日光權現·神矢の夢想に因り、日高氏と稱し、幕紋を鷹羽章とし、嫡は一羽、庶は二羽と定めたり」と。次に「義正に二子ありて、二男國則は別當の聟なるを以つて、國字を一家の讓名とし、三良禪師と云ふ。國則にも亦二子あり、嫡男則高·勝次郞と云ひ、その一子を小太郞則村と付ふ。則村に二子あり、長男高道·三尾十郞と云ひ、此の高道に亦二子あり、末は早世して、長男三郞右衞門尉高成·戰死するの前、巳に一子を生む、五郞重成と云ひ、其の男親成は小太郞と云ふ、建久五年甲寅薩州に下向す。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ読みの名字
日高と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
日高に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「日」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が日高の前後にある名字です。
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