丸に蔦

徳永

とくながTokunaga

全国323位 ・ 約6.8万人

徳永(とくなが)は、前の項を参照。

2件の公開家系図に 2人

基本情報

読み
とくなが
ローマ字
Tokunaga
全国順位
全国323位
推計人数
約6.8万人
全国比率
日本人のおよそ0.055%
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

徳永をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Tokunaga読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

この名字に記録のある家紋

『姓氏家系大辞典』の「徳永」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。

『姓氏家系大辞典』第4巻 284コマに「家紋丸に蔦、扇の地紙」とあります。 原典で見る →

図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。

家紋・紋章の調べ方(国立国会図書館 リサーチ・ナビ) →

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 伊予国(愛媛県)
  • 薩摩国(鹿児島県)
  • 石見国(島根県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

徳永(とくなが)は、前の項を参照。 【1】大友氏族 ― 前の項で述べた。 【2】新居氏族 ― 伊予国(愛媛県)の豪族で、徳永邑から起こった。『予章記』に「新居の一党も八か村あり、いわゆる徳永など八か村である」と載せ、『越智系図』『矢野系図』などにも同様に見える。天文年中、河野殿の旗頭、新居郡成敗衆に「垣生城主 徳永修理之介」がある。 【3】薩摩(鹿児島県)の徳永氏 ― 揖宿郡十町村の名族に徳永仙右衛門が見え、また喜入邑の名族にもある。 【4】河野氏族 ― 第二項と同じだという。伝説に「徳永石見守は近江国(滋賀県)神崎郡の生まれで、出自は伊予の河野氏である。伊庭氏の武臣で、後に佐々木家の直参となり、また柴田伊賀守に従い、伊賀守の没後は秀吉公に仕えて式部卿法印寿昌と号した。美濃高須の城主となって五万五千石を領したが、嫡子の左馬助に至って家が衰えた」とある。 『近江輿地志略』にも「寿昌は神崎郡の住人。その先祖は予州河野の十八家の一つである。中ごろ近江へ移って佐々木家に仕えた」と見える。ただし出自も発祥地も異説がある。以下の各項を参照。 【5】藤原北家頼通流 ― 幕臣徳永家譜によれば、関白頼通の四代・家隆の子である昌隆の子孫・興昌が近江国神崎郡の徳永村に住んで徳永を家号とした。…… 寿昌のことは『藩翰譜』に、次のようにある。「石見入道彦昌は、はじめ越前(福井県)の守護・柴田修理亮勝家の猶子である伊賀守勝豊の家老であった(勝豊は勝家の甥で養子である)。勝家と勝豊は年ごろ仲が良くなかった。羽柴・柴田の戦いが起こると、秀吉は石見守らを召して、その主人の伊賀守のもとへ使いとし、味方につくようにと言い送られた。勝豊はやがて養父の勝家に背いて秀吉に心を通わせた。天正十一年四月、勝豊は病が重くなり、医療を受けようとして自分の守る本山の要害を離れて都へ上った」。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

德永トクナガ前條參照。 1大友氏族前條に云へり。 2新居氏族伊豫國の豪族にして、德永邑より起る。豫章記に「新居の一黨も八ヶ村あり、所謂德永云々八ケ村也」と載せ、越智系圖、矢野系圖等にも同樣見ゆ。天文年中、河野殿旗頭、新居郡成敗衆に「垣生城主德水修理之介」あり。 3薩摩の德永氏揖宿郡十町村の名族に德永仙右衞門·見え、又喜入邑の名族に存す。 4河野氏族第二項と同一なりと云ふな!!傳說に「德永石見守は近江國神崎郡の產士、出自は伊豫の河野氏なり。伊庭氏の武臣にして、後佐々木家の直參に成り、又業田伊賀守に隨從し、伊賀守の卒後·秀吉公に仕へ、式部卿法印壽昌と號す。美濃高須の城主と成り、五萬五千石を領し、嫡子左馬助に至りて家衰ふ」と。近江與地志略にも、「壽昌は神崎郡の住人其の先は豫州河野が十八家の一也。中頃、當國に徒りて、佐々本家に仕ふ、」と見へたり。されど、出自、發祥地、共に異說あり。以下各項を見よ。 5藤原北家賴通流幕臣德永家譜に據れば、關白賴通が四代家隆の男昌隆の後胤興昌·近江國神崎郡德永村に住して德永を家號とす。……壽昌の事は、藩翰諸に「石見入道彥昌は、初め越前の守護柴田修理亮勝家が猶子伊賀守勝豐が家の老なり、(勝豐は勝家が甥にて養子たり)。勝家·勝豊と年ごろ其の間快からず。羽柴·柴円の軍起るに及んで、秀吉·石見守等を召して、其の主人伊賀守が許に使として、味方に與みすべきよしを云ひ送らる、勝豊·頓て養父勝家に背きて秀吉に心を通ず。天正十一年四月、勝豐·病甚しく醫療を加へんとて、おのが守る本山の要害を去りて、都に登る。

姓氏家系大辞典 第4巻 284コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

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