秋元
あきもとAkimoto
全国491位 ・ 約4.1万人
秋元(あきもと)は、上州館林の秋元侯は上総国周淮郡(君津郡)の秋元荘から発祥したものだが、そのほか奥州ならびに関西にも秋元氏があり、また秋本氏もある。
1件の公開家系図に 1人
基本情報
- 読み
- あきもと
- ローマ字
- Akimoto
- 全国順位
- 全国491位
- 推計人数
- 約4.1万人
- 全国比率
- 日本人のおよそ0.033%
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
秋元をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Akimoto読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「秋元」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
源氏車
牛車の車輪を象った図案。
『姓氏家系大辞典』第1巻 32コマに「家紋瓜、源氏車」とあります。 原典で見る →
図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 上野国(群馬県)
- 上総国(千葉県)
- 陸奥国(東北地方)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
秋元(あきもと)は、上州(群馬県)館林の秋元侯は上総国(千葉県)周淮郡(君津郡)の秋元荘から発祥したものだが、そのほか奥州(東北地方)ならびに関西にも秋元氏があり、また秋本氏もある。この氏は古い氏で、『東鑑(吾妻鏡)』巻三十二にすでに秋元左衛門次郎、同じく巻四十に秋元左衛門入道を載せる。 【1】武蔵(東京都・埼玉県)・上総の秋元氏 ― この氏は『寛政呈譜』によれば「宇都宮頼綱の子・泰業が嘉禄年中に周淮郡秋元庄を領したことから秋元を称したという。ただし宇都宮頼綱は『尊卑分脈』によれば道兼の七世の孫で、その子四人を伝えるが泰業の名は見えない。ことに『藩翰譜』には、秋元氏代々の位牌を伝える天南寺では源氏であると申す、とある」。『寛政系図』もまた疑って元景以前を記さない。 このように出自には疑いがあるが、中世、上総国周淮郡の秋元庄に拠り、里見氏が繁栄したころはこれに属して、周東・周西の二郡は皆その指揮を仰いだので、全郡を挙げて秋元庄と称したほどであった。 その町村志に「里伝に、旧城は小糸城で、永正五年戊辰三月、里見義豊がその臣・秋元兵部少輔義正にここに城を築かせ、青鬼城と称してここに居らせ、その領地を秋元荘と称した。元亀年中、その子・義久の時に落ちた」とある。 またこの秋元氏の一族で、近古に移って武蔵深谷の上杉氏の家宰となったものがある。『新編武蔵風土記』榛沢郡深谷城の条に「本丸の北、すなわち北曲輪の内の最も北寄りの辺りを秋元越中守曲輪と唱える。これは上杉の家人・秋元越中守長朝が居た所なので、その呼び名とするという」と述べる。 また上野台村秋元陣屋の条に「村の中ほどの小高い所にある。この所を字して金灯籠と呼ぶ。秋元越中守長朝の陣屋で、寛永十年に長朝が甲斐国(山梨県)谷村へ遷った後に廃したと言い伝える。今はおおむね林となっているが、土居や堀の跡はなお残っている。家譜によれば、越中守景朝は天正十五年十一月十二日に武州深谷で死去、その子・長朝は天文十五年に深谷で生まれ、寛永五年八月二十九日に卒した。その子・越中守泰朝は天正八年に深谷で生まれたと見える」とある。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
秋元アキモト上州館林秋元候は上總國周淮郡(君津郡)秋元莊より發祥せしなれど、其他奥州、並に關四にも秋元氏あり、又秋本氏もあり。此の氏は古き氏にて東鑑三十二既に秋元左衞門次郞、同四十に秋元左衞門入道を載せたり。 1武總の秋元氏、此の氏は寬政呈譜に據れば、「宇都宮賴綱の子泰業、嘉祿年中周淮郡秋元庄を領せしよリ秋元を稱すと云東へり。されど字都宮賴網は尊卑分脉によれば道兼七世孫なり、其子四人を傳ふれども奉業の名見えず、殊に藩翰譜に秋元氏世々の牌位を傳ふる天南寺にては源氏なりと申す」とあり、寛政系圖又疑ひて元景以前を記さず。かく其の出自に疑ひあれど、中世上總國周淮郡秋元庄に據り里見氏繁榮の頃は之に屬して、周東、周四の二郡皆其指揮を仰ぎければ、全郡を擧げて秋元庄と稱したる程なりき。其の町村志に、「里傳に舊城は小絲城にして、永正五年戊辰三月、里見義豊、其臣秋元兵部少輔義正をして此に城き、靑鬼城と稱し之に居らしめ、其領地を秋元莊と稱す、元龜中其子義久の時陷る」とあり。又この秋元氏の族近古移りて武藏深谷の上杉氏の家宰と爲るものあり、新編武藏風土記榛澤郡深谷城條に、「本丸の北は則北曲輪の内最北よりたる邊を秋元越中守曲輪と唱ふ。こは上杉の家人秋元越中守長朝居りし所なれば呼名とすといへり」と述べ、又上野臺村秋元陣屋條に、「村の中程にて小高き所にあり。此所を字して金燈籠と呼ぶ。秋元越中守長朝が陣中にて寬永十年長朝甲斐國谷村へ遷りし後廢せしと云傳ふ。今大抵林となれど、土居樽堀の跡は猶存せり。家諸に據れば越中守景朝天正十五年十一月十二日武州深谷にて死去、其子長朝天文十五年深谷にて生れ、寛水五年八月二十九日卒す。其子越中守泰朝天正八年深谷に生ると見ゆ。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
この名字の人々
同じ読みの名字
秋元と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
秋元に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「秋」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が秋元の前後にある名字です。
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