瀬下

せしもSeshimo

全国2445位 ・ 約5,820人

瀬下(せのしも・せのした・せしも)は、上野国甘楽郡瀬下邑から起こる。

この名字はまだ図鑑に載っていません

基本情報

読み
せしも
ローマ字
Seshimo
全国順位
全国2445位
推計人数
約5,820人
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

瀬下をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Seshimo読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 上野国(群馬県)
  • 武蔵国(東京都・埼玉県)
  • 丹波国(京都府・兵庫県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

瀬下(せのしも・せのした・せしも)は、上野国(群馬県)甘楽郡瀬下邑から起こる。 【1】上野の瀬下氏 ― 当国の豪族で、「保元物語」に早くも「上野には瀬下太郎」と、義朝に従う者として見える。その後、「東鑑」巻一に瀬下四郎広親が平家に属し、その後、巻三十六に瀬下太郎、また同じく奥太郎がある。次に楠木合戦注文に「瀬下太郎跡」、「永享記」に「嘉吉元年云々、侍所長尾出雲守憲景、瀬下治部少輔景秀」などとあり、皆その裔である。 【2】雑載 ― 武蔵男衾郡鉢形城士にこの氏があり、「瀬下丹波の宅跡は後世長く存した」という。また信濃佐久郡の名族にこの氏がある。 瀬馬(せば)は、次の条の氏に同じ。 瀬場(せば)は、信濃(長野県)・越後(新潟県)などにある。 【1】清和源氏伊那氏族 ― 信濃国筑摩郡洗馬邑から起こる。詳細は「せんば」の項を見よ。瀬場城(洗馬村)は瀬場(また瀬馬)氏の居城で、天文二十三年に武田に降った。 【2】瀬波衆(せば衆)― 戦国時代、越後国岩船郡の将士をいう。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

瀨下セノシモセノシタセシモ上野國甘樂郡瀬下邑より起る。 1上野の瀨下氏當國の豪族にして、保元物語、既に「上野には瀨下太郞」と、義朝に從ふ。その後、東鑑卷一に瀨下四郞廣親、平家に屬す。その後、三十六に瀬下太郞、また同奥太郞あり。次に楠木合戰注文に「酒下太郎跡、」永享記に「嘉吉元年云々、侍所長尾出雲守憲景、瀬下治部少輔景秀、」など皆その裔也2雜載武藏男衾郡鉢形城士に此の氏あリ、「瀬下丹波の宅跡は後世長く存せり」と0又信濃佐久郡の名族に此の氏あり。瀨馬セバ次條氏に同じ。瀨場セバ信濃、越後等にあり。 1〓和源氏伊那氏族信濃國筑摩郡洗馬邑より起る。詳細はセンバ條を見よ。瀨場城(洗馬村)は瀨場(又瀨馬)氏の居城にして、天文廿三年に武田に降る。 2瀨波衆(セバ衆)戰國時代、越後國岩船郡の將士を云ふ。

姓氏家系大辞典 第3巻 447コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

同じ漢字を使う名字

瀬下に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。

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