延原
のぶはらNobuhara
全国3653位 ・ 約3,400人
延原(のぶはら)は、菅原姓で備前・美作の豪族である。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- のぶはら
- ローマ字
- Nobuhara
- 全国順位
- 全国3653位
- 推計人数
- 約3,400人
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
延原をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Nobuhara読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 美作国(岡山県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
延原(のぶはら)は、菅原姓で備前(岡山県)・美作(岡山県)の豪族である。「安西軍策」に延原内蔵丞が見え、また浦上宗景の家臣六人の一人に延原弾正忠が見える。 また伝えるところによれば、宗景の家臣・延原内蔵亮家次は美作国に入り、その子・次郎左衛門貞俊に至って天正七年八月に浦上氏が滅びると、宇喜多直家に仕えて延原弾正忠景能と改め、花房職秀・岡家利・戸川秀安(少弐)と並んで宇喜多四天王の一人となったという。 弾正については「美作古城記」に「天正年中、延原弾正景光は軍勢を率いて倉敷山の城を攻め、江見市之丞を討ち取った」とある(江見の項を参照)。また「山陽道美作記」にも「延原弾正景光の倉掛山」などと載せ、「東作志」には「英田郡川会庄小山川村高鉢山は延原弾正の居所」とある。 さらに「○南郡公文庄勝間山(鳥貝山)。城主は延原弾正少弼景光。延原は矢田山方の家臣であるという。主君に仕えて実名を賜り、一字を賜って景光と名乗ったという。作州英田郡上山・勝田郡勝間の二城の主であった」とある。 天正六年、浦上氏が滅んだ後は本庄矢田山方に帰り住んでいたところ、宇喜多直家に頼まれて天神山の城を攻め落とし、次いで作州の先鋒の将となった。天正七年三月上旬、岡山を発って、まず雀部勘次郎貞利の周匝の城を攻め落とし、作州海田邑の鷹巣城に籠っていた江見次郎を焼き討ちにした。 同年四月下旬、延原は倉掛山へ押し寄せたが、敵に背後を断たれて前後から攻め立てられたため、弾正は佐瀬邑まで退き、郎党十七騎を討たせ、自身も深手を負って位田邑島興山の城へ引き退いた。ここで延原方の敗兵は再び勢いを盛り返し、三星城へ押し寄せたが、城兵が討って出て激しく戦ったため、旗を巻いて湯郷へ引き返した。 その○後、景光は和田助四郎と内談して位田島貝山に陣を張り、名を改めて勝間の城と号し、寄せ城としたという。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
延原ノブハラ1菅原姓備作の豪族にして、安四軍策に延原内蔵丞、又浦上宗景家臣六員の一に延原彈正忠·見え、又「宗景家臣延原内蔵亮家次·作州に入り、その子次郞左衞門貞俊に至り、天正七年八月、浦上氏滅び、字喜多直家に仕へ、延原彈正忠景能と改め、花房職秀、岡家利、戶川秀安(少弱)と並び、宇喜多四天王の一たり」と傳ふ。彈正は美作古城記に「天正年中、延原彈正景光·軍勢を引具し、倉敷山の城を攻め、江見市之丞を討取る」슴江見條參照又山陽道美作記に「延原彈正景光の倉掛山」など載せ、又東作志に「英田郡川會圧小山川村高鉢山は、延原彈正の居所」、又「霧南郡公文庄勝間山(鳥貝山)。城主延原彈正少弼景光。延原は矢田山方の紳士さと。事掌に仕へて式名あり。一字を賜ふて景光とすす。作州英国郡上山、勝田郡勝間、二城の主たり。天正六年、浦上減亡の後は、本庄矢田山方に歸住する處、宇喜田直家に賴まれ、天神山の城を攻落し、亞いで作州の先鋒の將となり、天正七年三月上旬、岡山を立って、先づ手始めに雀部勘次郞貞利が周匠の城を攻落し、作州海田邑鷹巢城に江見次郞が籠り居るを燒討にし、同四月下旬、延原·倉掛山へ押寄する處、敵·後を取切りて、前後より攻め立つるにより、彈正·佐瀨邑迄引取り、郞等十七騎を討たせ、自身も深手を負ひ、位田邑島興山の城へ引退く爰に延原方の敗兵·再び色を直して、三星城へ押寄せたりしに、城兵切て出で、火花を散らして戰ふによ1.旗を卷いて湯郷へ引返へして、其〇後、景光は和田助四郞と内談して、位田島貝山に陣を張り、名を改めて勝間の城と號し、寄せ城にぞ仕たりける。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ読みの名字
延原と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
延原に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「延」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が延原の前後にある名字です。
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