小峰
こみねKomine
全国1185位 ・ 約1.5万人
小峰(こみね)は、 【1】秀郷流藤原姓結城氏流 ― 磐城国白河郡小峰邑(白河町)から起こる。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- こみね
- ローマ字
- Komine
- 全国順位
- 全国1185位
- 推計人数
- 約1.5万人
- 全国比率
- 日本人のおよそ0.012%
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
小峰をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Komine読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 磐城国(福島県・宮城県)
- 下野国(栃木県)
- 河内国(大阪府)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
小峰(こみね)は、 【1】秀郷流藤原姓結城氏流 ― 磐城国(福島県・宮城県)白河郡小峰邑(白河町)から起こる。……(中略) 朝常は、正平五年九月にその一族を離れ、ひとり官軍に応じて石堂秀慶と戦ったが、翌年にはまた叛き、七年に宇津峰城を攻めたことが諸書に見える(「白川文書」「大日本史」「関城釈史」)。 その子孫の満政は、白河中畑文書に「下野国(栃木県)内上野○○(原文が欠けている)跡の事、云々。判(笹川満貞)。小峰三河守殿」とある。その孫・直親は室町幕府御内書案および「本朝通鑑」などに載る。 その子・直常、その子・則修は、広瀬氏の「結城事実」に、延徳二年に修理大夫に補任された証があるが、この人は永正七年二月に自害したと述べている。 ところが永正七年の白河の内訌では、嫡流の政朝(一名義永、弾正少弼)も九月に至って害に遭った。これは実に、岩城の援兵が小峰氏の招きによって侵入したためと聞こえる(「会津旧事雑考」「白河古事考」)。 そうであれば、小峰直常・小峰則修の子弟はなお存在していたらしい。また広瀬氏は系図で、政朝の子を顕頼とするのを疑い、実は子ではなく、小峰の子弟が奪って嫡家に代わったものかと論じている。 吉田氏の再考によれば、永正の頃、古河公方の政氏・高氏父子、およびその養子・梶原三郎政景らからの文書に、「小峰修理大夫殿」「小峰三河殿」と宛てた数通は、みな小峰則修宛てであって、嫡家の政朝ではない。もちろんその子の顕頼(右兵衛佐)でもない。 古河政氏の判書に「武茂庄のこと、たびたび仰せ出されているのに、今もその趣旨を心得ていない。けしからぬことである。速やかに上意に従うよう、白川弾正少弼へ意見を加えれば、しかるべきである。謹言。小峰修理大夫殿」とある。 顕頼は「会津旧事雑考」と照らし合わせて政朝の子と判断されるが、その末路は詳らかでない。おそらく小峰義綱にその家国を奪われたのだろう。(再考するに、政朝の次に隆朝、次に義綱と歴代した形跡が、八槻大善院の文書にたどることができる。)
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
小峰コミネ1秀〓流藤原姓結城氏流磐城國白河郡小峰邑(白河町)より起る。……朝常は、正平五年九月、其の族を離れて、獨り官軍に應じ、石堂秀慶と戰ひしも、翌年又叛き、七年宇津峰城を攻めしこと、諸書に見ゆ、(白川文書、大日本史、關城釋史)。其の子孫滿政は、白河中畑文書に「下野國內上野□□跡の事、云々、判(笹川滿貞)。小條三河守殿」と。其の孫直親は室町幕府御内書案、及び本朝通鑑等に載す。其の子直常、その子則修は廣瀨氏の結城事實に、延德二年、修理大夫に補任の證あるが、此の人、永正七年二月自害と述べたり。然るに、水正七年の白河内訌は、嫡流政朝(一名義永、彈正少弼)も九月に至り害に遭ふ。是れ實に岩城の援兵小峰氏の招に固りて、入侵したるがためと聞ゆ(會津舊事雜考、白河古事考)。されは、小峰直常、小峰朝修の子弟は猶ほ在りしに似たり。又廣測氏は系圖に、政朝の子顕賴とあるを疑ひ、實は子に非ずして、小峰の子弟の奪ひて、嫡家に代りしもの歟と論ぜらる。吉田氏の再考に、永正の比、古河公方政氏、高氏の父子、及び其の養者·梶原三郞政景等よりの文書に、小峰修理大夫殿、小峰三河殿と宛てたる數通は、皆小條朝修にて、嫡家の政朝にあらず。勿論其の子の顯賴(右兵衞佐にもあらず。(古河政氏判書に「武茂庄の事、度々仰せ出され候の處、今に其の旨を存ぜず候。曲事に候、速に上意に隨ひ候樣、白川彈正少弼へ、意見加へ候者、然るべく候、謹言。小峠修理大夫殿」と)。顯賴は會津舊事雜考に合稽して、政朝の子と判知せられ、其の末路を詳にせずと雖も、蓋し小峰義綱に其の家國を奪はれしのみ。(再考するに、政朝の次に隆朝、次に義綱と歴代したる形跡、八槻大善院の文書に追蹤せらる。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ読みの名字
小峰と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
小峰に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「小」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が小峰の前後にある名字です。
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