多比良
たひらTahira
全国9700位 ・ 約782人
多比良(たひら)は、「和名抄」の伊勢国飯高郡に上枚郷・下枚郷を載せ、前者に加半都多比良と注し、「今昔物語」には伊勢国平○とある。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- たひら
- ローマ字
- Tahira
- 全国順位
- 全国9700位
- 推計人数
- 約782人
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
多比良をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Tahira読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 伊勢国(三重県)
- 肥前国(佐賀県・長崎県)
- 薩摩国(鹿児島県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
多比良(たひら)は、「和名抄」の伊勢国(三重県)飯高郡に上枚郷・下枚郷を載せ、前者に加半都多比良と注し、「今昔物語」には伊勢国平○とある。また後世、田枚邑とも見える。そのほか、上野(群馬県)・肥前(佐賀県・長崎県)・薩摩(鹿児島県)などにこの地名が存し、なお多いと思われる。 【1】諸書に見える多比良氏 ― 氏人は早くから見え、「東鑑」に多比良小次郎(正嘉二年)を載せ、下って「甲陽軍鑑」に「たいら衆四十騎」とあり、また「上野国志」に「新堀城、多胡郡、田比良豊後守友定が居る」という。 「管窺武器」には次のようにある。「天正十八年、小田原陣のとき、越後(新潟県)の藤田能州(石川県)は、永井殿を三ツ山へ本意させようと、地下人たちの方へ計策をめぐらせたところ、もとの主であったので、みな思い付いて申し越すには、近辺に平の豊後守という侍があり、平の居館を掻き上げて罷り在り、ほかに左のみ手に立つ者は無いと申した。 能州はすなわち松枝より夜中に備えを押し出し、地下人を待ち受けて平を取り巻いた。豊後守は一子一郎を人質に出し、降参した。その後、豊後(大分県)は北条氏国へ内通したことが顕われて殺された。一郎は召し使われたが、三年目に病死して跡が絶えたという(「地名辞書」)」とある。 【2】武蔵(東京都・埼玉県)の多比良氏 ― 「平」の条第二十九項を参照。また「新編風土記」秩父郡条には次のようにある。 「多比良氏(薄村)、先祖を多比良丹波といい、鉢形の家臣であって、その頃、同郡矢○瀬村のうち虎が岡の城に居たが、没落した後、采地であったので今の地に居を移したという。 その後、関ヶ原の陣のとき、丹波(京都府・兵庫県)の子二人、与七郎・小七郎の兄弟が、この辺りの者をかり集めて供奉したが、信州(長野県)に至り真田安房守昌幸と戦い、共に討死したと伝える。古文書一通を蔵す」とある。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
多比良タヒラ和名抄、伊勢國飯高郡に上枚〓、下枚〓を載せ、前者に加半都多比良と註し、今昔物語には伊勢國平〓とあり。また後世、田枚邑とも見ゆ。その他、上野、肥前、薩摩等に此の地名存す、猶ほ多かるふ。……氏人は早く、東鑑に多比良小次郞(正嘉二年)を載せ、下りて甲陽軍鑑に「たいら衆四十騎、」また上野國志に「新堀城、多胡郡、田比良豐後守友定·居る」と云ひ、管窺武器に「天正十八年、小田原陣の時、越後の藤田能州は、永井殿を三ツ山へ本意させむと、地下人共の方へ計策を致さるゝに、古主なれば、悉く思ひ附きて、申し越すには、近邊、平の豐後守と申す侍、平の居舘を掻上げ罷リ在リ、外に左のみ手に立つ者無しと申す。能州·卽ち松枝より夜中に備を押し、地下人を待ち受け、平を取卷く。豐後守は一子一郞を人質に出し、降參也。其の後、豐後·北條氏國へ内通の事顯はれ殺さる。一郞は召仕はれしも、三年目に病死し跡絕ゆる也(地名辭書)」と見ゆ。 2武藏の多比良氏平條第廿九項參照。また新編風土記、秩父郡條に「多比良氏(薄村)、先祖を多比良丹波と云ふ、鉢形の家臣にして、其の頃、同郡矢郡瀨村の内虎が岡の城に居リしが、沒落せし後、釆地なればとて、今の地に居を移すと云ふ。其の後、關ヶ原御陣の時、丹波の子二人、與七郞、小七郞の兄弟にて、此の邊のものをかり集めて供奉せしが、信州に至り眞田安房守昌幸と取り合して、共に討死すと云ひ傳ふ。古文書一通を蔵す」と載せたり。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ漢字を使う名字
多比良に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「多」の字を含む名字
「比」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が多比良の前後にある名字です。
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