花菱

比企

ひきHiki

全国5904位 ・ 約1,670人

比企(ひき)は、武蔵国に比企郡があり、「和名抄」に比岐と注する。

3件の公開家系図に 2人

基本情報

読み
ひき
ローマ字
Hiki
全国順位
全国5904位
推計人数
約1,670人
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

比企をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Hiki読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

この名字に記録のある家紋

『姓氏家系大辞典』の「比企」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。

『姓氏家系大辞典』第5巻 209コマに「家紋は花菱及び劍鳩酸草」とあります。 原典で見る →

図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。

家紋・紋章の調べ方(国立国会図書館 リサーチ・ナビ) →

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 武蔵国(東京都・埼玉県)
  • 相模国(神奈川県)
  • 遠江国(静岡県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

比企(ひき)は、武蔵国(東京都・埼玉県)に比企郡があり、「和名抄」に比岐と注する。また相模(神奈川県)に比企谷があり、この氏名はここから起こる。比企氏は鎌倉以来の大族なので、項を分けて述べる。 【1】出自 ― 武蔵国比企郡から起こり、秀郷の後で、能貴を祖とするといい、一説には小碓尊二十余世の裔である健部人上大国が、延暦の頃に武蔵介に任ぜられ、その裔であるという。 比企氏系図には「藤原姓で、家紋は花菱および剣鳩酸草である」とあり、その大祖の出自は記さない。「判官能員は藤四郎と称し、比企・入間・高麗の三郡を領したが、故あって建仁三年九月二日、遠江守時政に誅せられた」とある。「東鑑」によれば、能員は四郎とも藤四郎とも称した。 永暦の初め、頼朝配流の時、能員の姨母である比企尼は、その夫の掃部允とともに忠節を尽くし、治承四年までの二十年の間、比企郡の田地を請所として生計を助けたので、頼朝が志を得た後、その覚えは並々ならぬものであった。そのうえ能員は常に側近く仕えて勤労が久しかったので、建久元年の上洛に扈従して右衛門尉に任じ、後にまた判官となった。 頼朝が薨じて後……(この間は原文の行が崩れていて読み取れない)……子の頼家に将軍宣下があった。能員の娘である若狭局はこれに仕えて男女の子を産んだ。そこで能員は外戚として勢いはいよいよ盛んであった(「新編風土記」)。また「中興武家諸系図」に「比企は藤原姓」と見える。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

比企ヒキ武藏國に比企郡あり、和名抄に比岐と註す。又相摸に比企谷あり、此の氏名より起る。比企氏は鎌倉以來の大族なれば項を分つて云ふべし。 1出自武藏國比企郡より起リ、秀ルの後にして、能貴を祖とすと云ひ、一說には小確尊二十餘世の裔健部人上大國、延曆の頃武蔵介に任ぜらる、其の裔なりと。比企氏系圖には「藤原姓にて、家紋は花菱及び劍鳩酸草なり」と載せ、其の大祖の由つて出る所を記さず「判官能員は藤四郞と稱し、比企入間高麗の三郡を領し、故ありて建仁三年九月二日遠江守時政に誅せらる」と。東鑑に據るに、能員は四郞とも、藤四郞とも稱す。永曆の初、賴朝配流の時、能員が姨母比企尼、其の夫掃部允と同じく忠節を存し、治承四年まで二十年の間、比企郡の田地を請所として世途をたすけしかば、頼朝·志を得て後、其の覺え大方ならず、しかのみならや、能員つねに眠近して勤勞ひさしかりければ、建久元年上洛に扈從して、右衞門尉に任じ、後又判官となる。賴朝薨じヒカル-ヒキ同人に滋野ヒカハ-ヒカミ同人にヒキヒキヒキ四九ガ二て後、子額家·將軍宣下あり。能員が女若狭局これに任へて、男女の子を產めり。されば能員外戚として椎勢·彌々盛なり(新編風土記)と又中興武家諸系圖に「比企·原姓」と見ゆ。

姓氏家系大辞典 第5巻 209コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

この名字の人々

同じ読みの名字

比企と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。

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「企」の字を含む名字

「比企」で始まる・比企を含む名字

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全国順位が比企の前後にある名字です。

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