米良
めらMera
全国3743位 ・ 約3,290人
米良(めら)は、日向などにこの地名がある。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- めら
- ローマ字
- Mera
- 全国順位
- 全国3743位
- 推計人数
- 約3,290人
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
米良をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Mera読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「米良」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
巴
弓を射るとき腕に着ける鞆(とも)を象り、三つを渦に組んだ図案。
『姓氏家系大辞典』第6巻 204コマに「家紋丸內揃覺羽、左巴」とあります。 原典で見る →
図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 日向国(宮崎県)
- 石見国(島根県)
- 伊賀国(三重県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
米良(めら)は、日向(宮崎県)などにこの地名がある。 【1】菊池氏族 ― 「菊池風土記」の菊池家の奇、同姓異氏に米良氏を載せ、一説に「菊池石見守国重の裔で、家紋は丸内に揃え鶴羽、左巴」という。 【2】桓武平氏 ― 平知盛・伊賀平内家長の諫めに従い、水縄山を越え、備後国(広島県)五箇山に籠った。その子孫が広がって米良氏と称したという。 あるいは「従四位下少将知時、左中将○経、上総守忠○、越中次郎兵衛盛次、妹尾十郎兼高、この五人は石垣山を越え、山伝いに肥後国(熊本県)五箇山に居住した。天下の人は知らなかった。この山中三里の二十里ばかり、平家一門の子孫が数千軒、七、八里こちらに米良という所があり、一門のうち米良主膳という者がいた。 慶安の頃、山崩れで洪水が出て、谷川から器物の類が流れ出た。その中に琴が一面あり、裏に長さ三寸、横七寸の延べ金を付けていた。銘に『平○盛所持』とあった。今なお熊本の官庫に蔵める。その頃の頭領は、新中納言より二十九代・権少輔平時貞と称した」云々(「筑後国(福岡県)史」)。 【4】日向の米良氏 ― 児湯郡米良邑から起こり、「日向記」に「野久尾城主米良筑後守(筑後守討死後、新伊豆守)、須木城主米良長門守(若名右馬介)、門川城主米良四郎右衛門尉、山陰城主米良喜内(若名弥二郎)、坪屋城主米良休助、雄八重領主米良分左衛門尉、平野領主米良民部少輔、三山野久尾地頭米良筑後守、坪屋地頭米良休助、米良尾張守、米良民部少輔、一徹の米良殿」など多くみえる。 また「地理纂考」諸県郡真方村伊東環条に「木崎原の役、伊東方諸将戦亡の墓所である。姓名の明らかな者は、伊東加賀守・伊藤又二郎・伊東新次郎・稲津又三郎・上別宮内・米良○後・野村四郎左衛門・米良式部などである」とある。 また「須木郷須木村松尾城は、元亀の頃、伊東氏の臣・米良筑後が城主であった。筑後は木崎原において戦死した。天正四年、島津義弘・伊東氏一族の伊東勘解由が高原城を抜いた。この勢いに恐れ、戦わずして落去した」とある。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
米良メラ日向等に此の地名あり。 1菊池氏族菊池風土記、菊池家の奇、同姓異氏に米良氏を載せ、一に「菊池石見守國重の裔にして、家紋丸內揃覺羽、左巴」증2粗武平氏平知盛·伊賀平内家長の諫に任せ、水縄山を越え、備後國五箇山に籠る。その子孫廣がりて米良氏と稱すと云ひ、或は「從四位下少將知時、左中將〓經、上總守忠〓、越中次郞兵衞盛次、妹尾十郞兼高、此の五人は石垣山を越え、山傳ひに肥後國五箇山に居住す。天下の人知る事なし。此の山中三里の廿里計、平家の一門子孫數千軒、七八里此方に米良と云ふ所あり、一門の内、米良主膳と云ふ者なり。慶安中、山崩れ洪水出で谷川より器物の類流れ出づ。其の內に琴一面あり、裏に長三寸、橫七寸の延金を付けたり。銘に『平〓盛所持』とあり。今猶ほ熊本の官庫に蔵む。其の頃の顔將は新中納言より廿九代權少輔平時貞と稱す」云々(筑後國史)。 4日向の米良氏兒湯郡米良邑より起リ、日向記に「野久尾城主米良筑後守(筑後守討死後、新伊豆守)、須木城主米良長門守(若名右馬介)、門河城主米良四郞右衞門尉、山陰城主米良喜内(若名彌二郞)、坪屋城主米良休助、雄八重領主米良分左衞門尉、平野領主米良民部少輪、三山野久尾地頭米良筑後守、坪屋地頭米良休助、米良尾張守、米良民部少輔、一徹の米良殿」など多く見ゆ。又地理纂考、諸縣郡眞方村伊東環條に「木崎原の役、伊東方諸將戰亡の墓所なり。姓名の分明なる者は、伊東加賀守、伊藤又二郞、伊東新次郞、稻津又三郞、上別宮內、米良瓦後、野村四郎左衛門、米良式部等なり」と又「須木郁須木村松尾城は、元龜の頃、伊東氏の臣米良筑後·城主なり。筑後は木崎原に於いて戰死す。天正四年、島津義弘·伊東氏一族伊東勘解由が高原城を拔く。此の勢ひに恐れ、戰はずして落去す」と。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ読みの名字
米良と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
米良に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「米」の字を含む名字
「米良」で始まる・米良を含む名字
米良の字をそのまま含む、より長い名字です。
同じくらいの多さの名字
全国順位が米良の前後にある名字です。
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