竹迫

たけさこTakesako

全国4729位 ・ 約2,300人

竹迫(たかは)は、肥後国合志郡竹道邑から起こる。

この名字はまだ図鑑に載っていません

基本情報

読み
たけさこ
ローマ字
Takesako
全国順位
全国4729位
推計人数
約2,300人
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

竹迫をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Takesako読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 肥後国(熊本県)
  • 摂津国(大阪府・兵庫県)
  • 日向国(宮崎県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

竹迫(たかは)は、肥後国(熊本県)合志郡竹道邑から起こる。中原氏の一族で、竹道家伝に、次のようにある。 「中原大膳大夫師員は、建久年中に合志郡の地頭に補せられて来住し、二子村(今の陣内という)に居り、後に上の荘原口に城の境を築いて住み、上荘を本城といい、原口を新城といった。あるとき、霊剣が竹間にあるのを夢に見て名剣を得たので、在名を改めて竹迫輝種といい、今は略して竹迫という」。 「肥後国志略」には「家号実名を改めて、竹道摂津守輝礼という」とある。ただし竹道は古書に「高羽」と書き、あるいは「高渡」ともするので、建久中にこれを改めたのではない。 正治二年三月、原口村に山王日吉上七社を建てた(家伝棟札、「事蹟通考」)。 師員はこの国の鹿子木・三池などと同姓で、その子孫は代々鎌倉幕府に仕え、また北条氏に従い、後に菊池家に属した。竹迫日向守種の時、菊池家が衰えたため、豊後(大分県)の大友家に降り、ようやく合志半郡の地頭職となった……(引用はここで途切れている)

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

竹迫タカハ肥後國合志郡竹道邑よリ起る〇〇中原氏の族にして、竹道家傳に「中原大膳太夫師員、建久年中、合志郡の地頭に輔せられ、來りて二子村(今陣内と云ふ)に居り、後に上の莊原口に城堺を築きて住し、上荘を本城と曰ひ、原口を新城と曰ふ。或る時、靈劔の竹間に在るを夢みて名劔を得、故に在名を改めて付迫輝種と謂ひ、今略して竹迫と曰ふ也」と載せ、肥後國志略には「家號實名を改めて、竹道攝津守輝禮と曰ふ」とあり。されど竹道は古書に高羽に作り、或は高渡と爲すが故に、建久中に之を改むるに非ざる也。正治二年三月、原口村山王日吉上七社を建つ(家傳棟札)と(事蹟通考)。師員は當國鹿子木、三池等と同姓にして、其の子孫·代々鐡倉幕府に仕へ、又北條氏に從ひ、後に菊池家に屬す。竹追日向守種が時、菊池家衰弊に及んで、豐後大友家に降り、漸く合志半郡の地頭職と爲れり……

姓氏家系大辞典 第3巻 523コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

同じ漢字を使う名字

竹迫に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。

同じくらいの多さの名字

全国順位が竹迫の前後にある名字です。

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