楡井
にれいNirei
全国7328位 ・ 約1,220人
楡井(にれい)は、前項を参照。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- にれい
- ローマ字
- Nirei
- 全国順位
- 全国7328位
- 推計人数
- 約1,220人
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
楡井をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Nirei読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 信濃国(長野県)
- 日向国(宮崎県)
- 大隅国(鹿児島県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
楡井(にれい)は、前項を参照。 【1】清和源氏村上氏族 ― 信濃国(長野県)高井郡仁礼邑から起こる。村上判官代為国の裔で、「鹿児島外史」に「楡井氏は、信濃国村上判官為国、楡井邑を領し、よって氏とする。今は仁礼と称し、鹿児島士族である。皆この裔である」とある。……(中略) また同郡の桐沢城は、一に大峰城、堂島城ともいう。東村桐沢にあり、上杉家臣・楡井孫三郎の居城であったが、後に堀直寄の家臣・高橋大膳大夫が拠ったという。 【3】日向(宮崎県)の楡井氏 ― 第一項の族で、南朝の忠臣である。諸県郡(囎唹郡)松尾城に拠る。 「三国名勝図会」の大隅国(鹿児島県)囎唹郡松尾城の項に「貞和のころ、楡井遠江守頼仲が官軍に応じ、この城に拠った。楡井氏は信濃源氏である。その四年、尊氏は島津氏に命じて頼仲を討たせた。頼仲はよく戦ったが、延文二年二月五日、畠山直顕に攻められて城が陥り、大慈寺の支院・実地庵に入って自殺した。その後、この城は下野四郎時久の居城となった」と見える。 また「地理纂考」の諸県郡志布志編松尾城の項に「昔はこの辺りを救仁院といった。建久のころ、救仁院平八成直が領主としてこの城を治所とした。貞和のころに至り、楡井遠江頼仲が志布志を奪い、この城に拠って、しばしば兵を発して周辺の村を併せた。足利直冬が筑紫に至るに及んで、畠山直顕は直冬に応じた」云々とある。以下は新納の項を見よ。 その勤王の事蹟は、福占文書に「延文二年正月二十七日、楡井四郎頼仲が日州敦仁の胡摩ヶ城に打ち入って城郭を構えたので、馳せ向かって激しく合戦し、この城を攻め落とした。頼仲やその弟の又四郎頼重以下を討ち取った」と載せている。 また、福占又五郎建部○増(この一字は原文が崩れている)の軍忠状に「正月二十七日、楡井四郎頼仲が日州教仁の胡摩崎に打ち入り、城郭を構えて立てこもったので、時を移さず馳せ向かって激しく合戦し、若党の大夫房が傷を負いながらも、月末にはその城を攻め破り、頼仲・頼重以下、親類・若党など数十人を討ち取った」と見えることから窺うことができる。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
楡井ニレヰ前條參照。 1〓和源氏村上氏族信濃國高井郡仁禮邑より起る。村上判官代爲國の裔にして鹿兒島外史に「楡井氏は、信濃國村上判官爲國·楡井邑を領し、因りて氏とす。今仁禮と稱し、鹿兒島士族なり、皆是の裔也」と。……又同郡桐澤城は一に大峰城、堂島城とも云ふ。東村桐澤に在りて、上杉家臣楡井孫三郞の居城たりしが、後に堀直寄家臣高橋大膳大夫據るとぞ。 3日向の楡井氏第一項の族にして、南朝の忠臣也。諸縣郡(囎唹郡)松尾城に據る。三國名勝圖繪、大隅國囎唹郡松尾城條に「貞和の頃檢井違江守賴仲·官軍に應じ、當城に據る。楡井氏は信濃源氏也。その四年、尊氏·島津氏に命じ、賴仲を擊たしむ。額仲よく戰ひしも、延文二年二月五日畠山直顯に攻められて城陷り、大慈寺の支院實地庵に入りて自殺す。そのは、當城は下野四郞時久の居城となれり」と見ゆ。又地理纂考、諸縣郡志布志編松尾城條に「往古此の邊を救仁院といへり。建久の明、救仁院平八成直·領主にて當城を治所とす。貞和の頃に至り、椎井遠江賴仲·志布志を奪ひ、當城に據り、屢々兵を發し請邑を併す。足利直冬·筑紫に至るに及んで、畠山直顯·直冬に應ず」云々と。以下新納條を見ゆ。その動王事蹟は福占文書に「延文二年正月廿七日、内徒楡井四郞·日州敦仁〓胡摩ケ城に打ち入りて、城郭を構ふるの間、馳せ向ひて散々合戰を致し、彼の城を攻め落す。賴仲、同舍弟又四郞賴重以下、之を討取リ訖んぬ」と載せ、〓占又五郞建部〓增の軍忠狀に「正月廿七日、楡井四郞賴仲·日州教仁〓胡摩崎に打ち入リて、城郭を構え、楯籠るの間、時刻を廻らさず、馳せ向ひて、散々合戰を致し、若黨大夫房·疵を被り、晦日には彼の城を攻め破り、賴仲頼重以下、親類若黨等數十人を討取り訖んぬ」と見ゆるによりて窺ふべし。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ読みの名字
楡井と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
楡井に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「楡」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が楡井の前後にある名字です。
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