市来

いちきIchiki

全国2503位 ・ 約5,650人

市来(いちき)は、薩摩の著姓であり、日置郡市来より起こる。

この名字はまだ図鑑に載っていません

基本情報

読み
いちき
ローマ字
Ichiki
全国順位
全国2503位
推計人数
約5,650人
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

市来をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Ichiki読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 薩摩国(鹿児島県)
  • 日向国(宮崎県)
  • 若狭国(福井県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

市来(いちき)は、薩摩(鹿児島県)の著姓であり、日置郡市来より起こる。 【1】大蔵流 ― 宝亀年中に大蔵政房が薩摩に下向し、日置郡市来院の郡司となり、子孫は市来氏を称したという。市来大里村の鍋ケ城は、また市来城ともいい、市来院郡司市来氏の旧城である。……(中略)宝亀年中、大蔵政房がこの国に下向し、市来院郡司となって当城に居した。その四世の家房に一女があり、勢至御前という。国分左衛門尉友成と婚し、政家を生んだ。これが惟宗姓市来氏の祖である。 はじめ惟宗民部大夫広言は日向守基言の子である。その二子、左衛門尉忠康・若狭兵衛尉忠季は、ともに承久の乱に戦死した。そのため一族の国分左近将監友久の男・左衛門尉友成を養って嗣とした(友久は執印康友の二子であり、筑前国(福岡県)安楽寺管下の薩摩国分寺の留守である)。その子である前述の政家は、大蔵家房の没後、母の譲りを受けて市来院郡司となり、市来を氏とした。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

市來イチキ薩摩の著姓にして日置郡市往より起る。 1大藏流寶龜年中、大藏政房、薩摩に下向し、日置郡市往院郡司となり、子孫市往氏を稱すと云ふ。市來、大里村鍋ケ城は又市來城、市來院郡司市來氏の舊城也。……實龜年中、大藏政房此國に下向し、市來院郡司となり、當城に居る。其四世家房一女あり、勢至御前と云ふ。國分左衞門尉友成と婚し、政家を生む。これ惟宗姓、市來氏の祖也。始め惟宗民部大夫廣言は日向守基言の子也。其二子左衞門尉忠康、若狭兵衞尉忠季、共に承久の亂に戰死す。故に一族國分左近將監友久の男左衞門尉友成を養つて嗣とす(友久は執印康友の二子にして、筑前國安樂寺管下薩摩國分寺の留守也)。其子前述の政大藏家房沒後、其母の讓を受けて市來院郡司となり、市來を氏とす。

姓氏家系大辞典 第1巻 198コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

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