丸に引両

分部

わけべWakebe

全国5762位 ・ 約1,730人

分部(読みは原文が崩れていて読み取れない)は、前の二項を参照。

この名字はまだ図鑑に載っていません

基本情報

読み
わけべ
ローマ字
Wakebe
全国順位
全国5762位
推計人数
約1,730人
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

分部をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Wakebe読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

この名字に記録のある家紋

『姓氏家系大辞典』の「分部」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。

『姓氏家系大辞典』第6巻 474コマに「家紋丸に三引、庵に木瓜、三引龍」とあります。 原典で見る →

図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。

家紋・紋章の調べ方(国立国会図書館 リサーチ・ナビ) →

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 伊勢国(三重県)
  • 山城国(京都府)
  • 薩摩国(鹿児島県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

分部(読みは原文が崩れていて読み取れない)は、前の二項を参照。 【1】藤原南家工藤氏族 ― 伊勢国(三重県)の豪族で、安濃郡分部村から起こり、「長野家記」に工藤一族とする。初め工藤結経六世孫の二郎右衛門高景(家記には親光)が尊氏に仕え、安濃郡長野の地頭となった。曾孫の四郎二郎光久に至って分部を称し、弟の光恒、その子の光高が相継いで長野家に仕えた。長野・細野などの項を参照。 ……(中略)城は分部村東垣内にある。氏人は「勢州四家記」に「分部左京亮が長野に叛き、信長の幕下についた」とある。光高に至り、細野藤光の三男四郎二郎光嘉を嗣とした。与三左衛門政寿のことで、左京亮というのも同人である。 奄芸郡中山城に居り、後に上野城に移った。「伊乱記」に分部左京進、河野・新経豊また太郎経宜(福岡郡、同上)、伊勢安堵専当沙汰(この一節は原文が崩れている)と載せ、また薗ヶ原の戦いに分部左京亮政寿と見える。 そのほか、「三国地志」に忠兵衛光勝(慶長三年没)、民部丞光宗(文禄二年没)などを載せている。 【3】分部侯 ― 前項分部政寿の後で、永禄十一年、織田氏の兵が北勢に入ると、政寿と河北内匠助らはこれに属し、信長の弟の信包に長野家を継がせて、これを別府上野城に置き、政寿は移って中山城に居った。 文禄初年、信包が邑を失うと、豊臣秀吉は政寿を上野城にとどめて一万石を給した。「藩翰譜」に「左京亮源政寿は代々の先祖が伊勢国に住んで、当国安濃・奄芸両郡の主である長野家の被官であった。 永禄十一年春、織田殿が伊勢国を討とうとして、まず細野の城を攻められた。左京亮政寿は河北内匠助と連れ立って信長の御陣に参り、申したことには、『そもそも長野の家というのは、工藤左衛門尉站経の二男薩摩守祐長の子孫が元弘の初め、当国安濃郡を領して長野の地に住んだことから、長野と名乗ったのである』」とある。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

分部ロイス前二條參照。 1藤原南家工藤氏族伊勢國の豪族にして、安濃郡分部村より起リ、長野家記に工藤一族とす。初め工藤結經六世孫二郞右衞門高景(家記に親光)·尊氏に仕へ、安濃郡長野地頭たり。曾孫四郞二郞光久に至り、分部を稱す、弟光恒、その子光高·相繼いで長野家に仕ふ。長野、細野等の條參照。……城は分部村東垣内に在り。氏人は勞州四家記に「分部左京亮·長野に叛き、信長の幕下につく」と。光高に至り、細野藤光の三男四郞二郞光嘉を嗣とす。與三左衞門政壽の事にして、左京亮と云ふも同人也。奄藝郡中山城に居り、後に上野城に移る。伊亂記に分部左京進河野、新經豐又太郞經宜福岡郡同上。伊勢安吏專當沙汰ワケ-ワケタワケヘカラミと載せ、又園ヶ原戰に分部左京亮政壽と見ゆ。その他、三國地志に忠兵奮光勝(慶長三卒)、民部丞光宗(文祿二卒)等を載せたり。 3分部侯前項分部政壽の後にして、永祿十一年、織田氏の兵·北勢に入るや、政壽、及び河北內匠助等、これに屬し、信長の弟僧包をして、長野家を嗣がしめ、之を別府上野城に實き、政壽は移りて中山城に居る。文祿初年、信包·邑を失ふヤ、豐臣秀吉·政壽を上野城に留めて一萬石を給す。藩翰語に「左京亮源政壽は累代の先祖·伊勢國に住して、當國安濃奄藝兩郡の主長野が家の被官たり。永藤十一年春、機田殿·伊勢國を討たんとて、先づ細野の城を攻めらる。左京亮政壽、河北內匠助と打連れて、信長の御陣に參り、申しけるは、『抑も長野の家と申すは、工藤左衞門尉站經が二男薩摩守祐長が子孫·元弘の初め、當國安濃郡を領して、長野の地に住せしより、長野とは名乗つてけり。

姓氏家系大辞典 第6巻 473コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

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