保科
ほしなHoshina
全国1271位 ・ 約1.4万人
保科(ほしな)は、信濃の大族で、詳しくは前の項を参照。
6件の公開家系図に 3人
基本情報
- 読み
- ほしな
- ローマ字
- Hoshina
- 全国順位
- 全国1271位
- 推計人数
- 約1.4万人
- 全国比率
- 日本人のおよそ0.011%
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
保科をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Hoshina読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「保科」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
『姓氏家系大辞典』第5巻 421コマに「家紋並九曜、梶の葉」とあります。 原典で見る →
図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 信濃国(長野県)
- 筑後国(福岡県)
- 肥後国(熊本県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
保科(ほしな)は、信濃(長野県)の大族で、詳しくは前の項を参照。 【1】諏訪氏族 ― 信濃の郡部・保科の豪族で、「諏訪神氏系図」に「諏訪為盛の子・盛行、その子・行遠(保科四郎大夫)」と載せ、前田家本には「神大夫盛行―四郎大夫行遠―行信……(この先は原文の行が崩れていて読み取れない)……行直―行連―行国―保科……行朝」と見える。 【4】平姓 ― 次項の氏は一に平氏ともいう。 【5】伊那の保科氏 ― 諏訪神家の族であろうか。ただし保科弾正忠(筑後守)正則は第二項の族と称する。 関氏はいう。「保科氏の館跡は藤沢村御堂垣外城山にある。その先は信州高井郡井上掃部頭の末裔に出る(『落穂集』にいう、保科は『和名類聚』には礒科、『盛衰記』には星名、『東鑑』には保科と出ている)。」 「天文の頃、保科甚四郎源正俊に至って、武田信玄が四方に威を張り度々合戦に及ぶ中、天文十八年に至ってついに降参して属し仕えた。天正十年、武田氏が没落した後、嫡男・弾正忠正直に至り、酒井左衛門尉正次の取り持ちによって同年七月、徳川家康に隷属した。」 「命により高遠城に移り、箕輪城主・藤沢次郎頼親を田中の城に攻め、同十八年、大神君(家康)に随順して関東に移った」(「郡記」)と。 また「飯田家譜」に「勝頼が保科越州の二百五十騎に伊奈郡飯田城を救わせた」などと見え、「藩翰譜」に「保科肥後守源正光は、信濃国の源氏、井上掃部助頼季の末葉、弾正忠正直の男である」とある。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
保科ホシナ信濃の大表は、前歡條參閱1諏訪氏族信濃開始郵部保科の豪族にして、諏訪神氏系「諏訪爲盛の子盛行、其の子行遠(保科四郞大夫)」と載せ、前田家本に「神大夫盛行信号四郎大夫行遠-行信第二貳者範行年原信太郎行直-行連行國保科區四三己行朝4平姓次項氏は一に平氏とも云ふ。 5伊那の保科氏諏訪神家の族か。但し保科彈正忠(筑後守)正則は第二項の族と稱す。關氏云ふ「保科氏の館跡は藤澤村御堂垣外城山にあり。其の先は信州高井郡井上掃部頭の末裔に出づ(落穗集に云ふ,保科は和名類聚には禮科、盛衰記には星名、東艦には保科と出でたり)。天文中、保科甚四郞源正俊に及んで、武田信玄·四北に梟威を張り、度々合戰に及ぶ。同十八年に至リ、終に降參して屬仕し、天正十年武田氏沒落して、後ち嫡男彈正忠正直に至リ、酒井左衞門尉正次の取持を以つて、同年七月德川家康に隷屬し、命に依り高遠城に移り、箕輪城主藤澤次郞頼親を田中の城に攻め、同十八年大神君に隨順して關東に得替す」(郡記)と。又飯田家譜に「勝賴·保科越州二百五十騎をして伊奈郡飯田城を救はしむ」など見え、藩輪譜に「保科肥後守源正光は、信濃國の源氏、井上掃部助賴季が末葉、彈正忠正直が男なり。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
この名字の人々
同じ読みの名字
保科と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
保科に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「保」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が保科の前後にある名字です。
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