瀬野

せのSeno

全国2152位 ・ 約6,910人

瀬野(せの)は、妹尾(せのお、また瀬尾とも書く)。

この名字はまだ図鑑に載っていません

基本情報

読み
せの
ローマ字
Seno
全国順位
全国2152位
推計人数
約6,910人
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

瀬野をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Seno読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 備中国(岡山県)
  • 備前国(岡山県)
  • 薩摩国(鹿児島県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

瀬野(せの)は、妹尾(せのお、また瀬尾とも書く)。備中(岡山県)の大族で、そのほかにも多い。この氏は、「妹」に「せ」の訓がないため、もとは「兄尾」であったのが、後に「妹」に誤られ、ついにそれが慣例となったのだろうという。 【1】備中の妹尾氏 ― 備中国都宇郡妹尾邑より起こる。備前境の地である。伝えていう、「平治の乱のとき、大夫兼門があり、義朝に属した。よってこれを罪せられ、薩摩守忠度に預けられた。その孫、妹尾太郎兼康は、平家に従い、備前(岡山県)・備中・備後(広島県)を管領した。寿永二年、木曽追討のとき、侍大将五人のうち、兼康はその一人である」(「備前国志」)と。 瀬能(せの) ― 能登(石川県)の社家で名族という。越後(新潟県)に四奈弥神社がある。源氏であるといい(この先は原文が崩れて意味が取れない)、 「保元物語」官軍勢汰の条に「重盛に相従う人々には、備中国の住人、瀬尾太郎兼康を始めとして六百余騎」とあり、また「平治物語」侍賢門の軍に「大将軍は左衛門佐重盛、侍には瀬尾太郎兼康」とあれば、もと義朝に属していたなどというのは、俗説に過ぎないことが知られる。 また「平家物語」巻五に「瀬尾太郎兼康を、大和国(奈良県)、検非違使所に補せられる」とあり、また「源平盛衰記」に「備中国住人妹尾太郎兼康を大和国の検非違使所となして、数百騎の兵を相添えて下し遣わしたが、大衆はそれにも恐れず、蜂起して押し寄せ、靱を打ち落とし、兼康の家子郎等の首二十六を斬って、猿沢の池の端に懸けた」云々とある。 その後、寿永の乱で平家方として奮戦したことは人がみな知るところで、「平家物語」巻八に瀬尾最後の条がある。瀬尾の嫡子小太郎宗康は、年は二十二になったが、あまりに肥え太っていて、一町も走れなかった。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

瀨野セノ妹尾セノヲ又瀬尾に作る。備中の大族也その他にも多し。此の氏·妹にセの訓なければ、もと妖尾なりしを、後妹に誤り、遂に例となるかと云ふ。 1備中の妹尾氏備中國都字郡妹尾邑より起る。備前界の地也。傳へ云ふ、「平治の亂の時、大夫兼門あり、義朝に屬す。よりて罪せられ、薩摩守忠度に預けらる。其の孫妹尾太郞兼康、平家に從ひ、備前備中備後を管領す。壽永二年、木曾追討の時、侍大將五人の內、兼廉、その一人也」(備前國志)と。世能能登の社家にて名族なりと。越後に四奈彌神社あり。源氏にして、丹後氏よされど保元物語、官軍勢汰の條に「〓盛に相從ふ人々には、備中國の住人、瀨尾太郞兼康を始めとして六百餘騎」と又平治物語、侍賢門の軍に「大將軍は左衞門佐重盛、侍には瀨尾太郎兼康」とあれば、もと義朝に屬すなど云ふは、俗說に過ぎざるを知るべし又平家物語卷五に「瀬尾太郞兼康を、大和國、檢非違所に補せられる」と又源平盛衰記に「備中國住人妹尾太郞兼康を大和國の檢非違所に成して、數百騎の兵を相副へて、下し遣したれ共、大衆其れにも恐れず、蜂起して押し寄せ、靱は打落し兼康が家子郞等の頸廿六斬つて、猿澤の池の端に懸けたり云々」とその後、壽永の亂、平家方として奮戰せし事は人の皆知る處にして、平家物語卷八に瀨尾最後の條あり。一瀬尾が嫡子小太郞宗康は、年は二十二に成けれ共、餘りに肥え太りて、一町共え走らず。

姓氏家系大辞典 第3巻 446コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

同じ漢字を使う名字

瀬野に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。

「瀬野」で始まる・瀬野を含む名字

瀬野の字をそのまま含む、より長い名字です。

同じくらいの多さの名字

全国順位が瀬野の前後にある名字です。

存命の方の氏名・生年月日は自動的に伏せられています。ご自身やご家族の掲載を望まない場合は、申請フォームからお知らせください。 掲載の取り消し・名前を伏せる申請フォームへ →