吉江
よしえYoshie
全国2258位 ・ 約6,440人
吉江(よしえ)は、……(この先は原文の行が崩れていて読み取れない)。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- よしえ
- ローマ字
- Yoshie
- 全国順位
- 全国2258位
- 推計人数
- 約6,440人
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
吉江をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Yoshie読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「吉江」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 豊前国(福岡県・大分県)
- 摂津国(大阪府・兵庫県)
- 越後国(新潟県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
吉江(よしえ)は、……(この先は原文の行が崩れていて読み取れない)。 また「加能越三州志」越中国(富山県)新川郡魚津城の条に「天正六年戊寅、上杉景勝がこの城を修理し、河田豊前・吉江織部を置いた。九年辛巳、越後(新潟県)の山本寺伊藤、吉江織部、同喜四郎、芋川縫殿、鈴木藤丸、亀田隼人、黒金孫左衛門がここに籠城した」と、「前田創業記」に見える。十年五月、最勝三千八百の兵で遺城を保っていたのを、信長公の諸将がこれを囲み、柴田勝家が奇計をもって河田・吉江を欺いて討ち取り、城が陥落したことが「太閤記」などの諸録に見える。 ……(中略) 家紋は藤丸、竹に雀、十六菊葉、五七桐、亀甲の内左三巴、丸に根笹。次郎左衛門正核は元文四年に幕臣となった。その男左衛門政福である。 【1】吉江宿禰 ― 前項の氏と同じであろう。「除目大成抄」康平八年の条に「摂津少目吉江宿禰秋時」などとあり、この氏の人である。 【2】無尸の吉江氏 ― 「除目大成抄」などに見え、前項氏族の裔である。 【3】中条氏族 ― 越後国蒲原郡吉江邑から起こる。「太平記」巻二十九に吉江小四郎、また巻三十に「吉江中務が武蔵国(東京都・埼玉県)の守護代として、勢を集めて居た」とある。吉江邑の吉江城はこの氏の居城である。 もと中条氏の一族で、吉江小四郎政房は観応二年二月、摂州(大阪府・兵庫県)武庫川の堤で高越後守師泰を襲い、槍で突き落として首を取った。のちに上杉家に従い、当国で譜代の家人となった。中務尉定仲(道房)は当城にあった。また長島城(長島村)も吉江氏の居城で、天正十年に至り、吉江喜四郎が魚津へ加勢し、籠城して忠死した。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
吉江ヨシェ試験、消費等に地名中傳に青に又加能越三州志、中国新川郡魚津城條に一天正六年戊寅、上杉景勝·此の城を修理して、河田豐前、吉江織部を置く。九年辛巳、感後の山本寺伊藤、吉江織部、同喜四郞、芋川縫殿、鈴木藤丸、龜田隼人、黑金孫左衞門·爰に嬰城すと、前田創業記に見ゆ。十年五月、最勝三千八百の兵にて遺城に保むを、信長公の諸將之を圍み、柴田勝家·奇計を以て、河田吉江を欺きて討取"、城陷リつること、太閤記等の諸錄に見ゆ。……家紋藤丸、竹小雀、十六菊葉、五七桐、龜甲の内左三巴、丸に根笹次郞左衞門正核·元文四年幕臣となる。その男左衞門政福也。 1吉江宿禰前項氏に同じかるべし。除目大成抄、康平八年條に「攝津少目吉江宿禰秋時」など、此の氏人也。 2無尸の吉江氏除目大成抄等に見ゆ。前項氏族裔也3中條氏族越後國蒲原郡吉江邑より起り、太平記卷二十九に吉江小四郞、又三十に「吉江中務が武藏國の守護代にて、勢を集めて居たりける、云々」と。吉江邑の吉江城はこの氏の居城也。もと中條氏の族にして、吉江小四郞政房は觀應二年二月、攝州武庫川の堤に高越後守師泰を襲ひ、槍にて突落して首を取る。愛上杉家に隨ひ、當國にて譜代の家人となる。中務尉定仲(道房)は當城にありたリ。又長島城(長島村)も吉江氏の居城にして、天正十年に至り、吉井喜四郞·魚津へ加勢、籠城忠死せり。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ漢字を使う名字
吉江に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「吉」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が吉江の前後にある名字です。
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