肝付
きもつきKimotsuki
全国6766位 ・ 約1,380人
肝付(きもつき)は、南九州の大族であり、長く勢力を保ち、支族が非常に多い。
2件の公開家系図に 2人
基本情報
- 読み
- きもつき
- ローマ字
- Kimotsuki
- 全国順位
- 全国6766位
- 推計人数
- 約1,380人
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
肝付をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Kimotsuki読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「肝付」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
鶴
翼を輪に畳み、首を巻いて頭を返した鶴の図案。
『姓氏家系大辞典』第2巻 408コマに「紋舞鶴章を賜ふ」とあります。 原典で見る →
図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 大隅国(鹿児島県)
- 河内国(大阪府)
- 薩摩国(鹿児島県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
肝付(きもつき)は、南九州の大族であり、長く勢力を保ち、支族が非常に多い。南北朝時代には王事に尽力し、また久しく島津氏と相○した(原文の字が崩れている)。 ……(中略) 「文武紀」四年六月条に「薩末比売、久売、波豆、衣評督・衣君県、助督・衣君且自美、また肝衝難波、肥人らを従え、兵を挙げて、ついに国使・刑部真木らを脅迫した」云々と見えることから、肥人の首長であったのだろうかと考えられる。 【2】伴姓 ― 前項の氏と同様、大隅国(鹿児島県)肝属から起こる。南九州の大族であり、島津氏に対抗し、ことに南北朝時代には王事に尽力するところが多かったので、その名声は非常に高い。しかしその出自については明らかでない点が多く、私のような者でも、幾度かその推定に迷った。 その系図によれば、大友皇子の後裔であり、皇子の御子・内大臣余那足の裔と称し、その八世孫・伴掾大監(また河内守)兼行が、安和元年に薩摩国(鹿児島県)総追捕使となり、同二年に鹿児島郡神食へ下向した。これが伊敷(下伊敷)の伴掾館(あるいは伴氏館所)であるという。 その後、兼貞の代(兼貞は兼行の子、あるいは○、あるいは曾孫、あるいは十一世ともいう)に至って肝属へ移り、日向国(宮崎県)三俣院をあわせ領したと伝えられる。 これより前、太宰大監・平季基が万寿年中に日向国清県郡島津に居住し、無主の荒野を開墾して関白藤原頼通に寄進し、摂録家の伝領として島津御荘と称え、季基がその下司職を兼ねた。その後、娘を兼貞にめあわせて嗣子とした。兼貞は五男をもうけた。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
肝付キモツキ南九州の大族にして永く勢力を保ち、從つて支族甚だ多し。南北朝、王事に盡し、又久しく島津氏と相顔頑す。……文武紀四年六月條に「薩末の比賣、久賣、波豆、衣評督·衣君縣、助督·衣君且自美、又肝衝難波、肥人等を從へ、兵を持し、竟國使·刑部眞木等を刷劫す云々」と見ゆるにより肥人の曾長たりしならんかと考へらる。 2伴姓前項氏と同樣、大隅國肝屬より起る。南九州の大族にして、島津氏に對抗し、殊に南北朝時代に於いては王事に盡瘁する所·多かりしかば、其の名聲甚だ高し。されど其の出自に至りては明白ならざる點多く、予單の如きも、幾度か其の推定に惑ひぬ。其の系圖に據れば、大友皇子の後にして、皇子の御子内大臣余那足の裔と稱し、共の八世孫伴掾大監(又河内守)兼行、安和元年に薩摩國總追捕使となり、同二年、鹿兒島郡神食に下向す。これ伊敷(下伊數)の伴椽館(或は伴氏館所)なりと云ふ。其の後、兼貞の代(兼貞は兼行の子、又は、あ、又は曾孫、或は十一世と云ふ)に至り、肝屬に移り、日向國三俣院を併せ領すと傳へらる。これより前、太宰大監平季基、萬壽年中·日向國清縣郡島津に居住し、無主の荒野を開墾し、關自藤原賴道に寄せ、攝錄家の傳傾として、島津御荘と稱へ、季基·其の下司職を兼ぬ。その後、女を兼貞に配して嗣とす。兼貞五男を生む。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
この名字の人々
同じ漢字を使う名字
肝付に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
同じくらいの多さの名字
全国順位が肝付の前後にある名字です。
存命の方の氏名・生年月日は自動的に伏せられています。ご自身やご家族の掲載を望まない場合は、申請フォームからお知らせください。 掲載の取り消し・名前を伏せる申請フォームへ →
