立谷

たちやTachiya

全国8949位 ・ 約889人

立谷(たちや)は、磐城国相馬郡立谷邑から起こる。

この名字はまだ図鑑に載っていません

基本情報

読み
たちや
ローマ字
Tachiya
全国順位
全国8949位
推計人数
約889人
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

立谷をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Tachiya読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 磐城国(福島県・宮城県)
  • 越後国(新潟県)
  • 相模国(神奈川県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

立谷(たちや)は、磐城国(福島県・宮城県)相馬郡立谷邑から起こる。南北朝の頃、立谷十郎保朝がおり、王事に尽くした。 「奥相志」に「立谷村に城址があり、建武年間、北畠国司有家が霊山に城を築いたとき、配下の中野氏という者が伊達郡から立谷村に至り、立谷右京亮と名乗った。後に相馬氏に属し、天文年間に立谷越後があり、標葉郡邑に居って国境を守ったが、夜討ちに遭って死んだ」とある。伊達家世襲の老臣に中野氏があり、右京亮はその一族と知られる。 後年、中野常陸介宗時という者が、伊達政宗・晴宗・輝宗の三代に仕えて国権を握ったが、驕奢で無礼であり、ついに謀反を企て、事が露見して相馬へ逃げ、流浪して死に、家は滅んだ。 「奥相志」にはまた立谷十郎保が見え、右京亮の一族であろう。あるいは、立谷氏は天文年間に転封になったともいう(「伊達行朝勤王事歴」)。 (この先の一節は見出しの字が原文で崩れており、たより・たちもり・かたちと読む見出しが続くとみられる)田津(たつ)は、「和名抄」相模国(神奈川県)御浦郡に田津○を収める。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

立谷タチヤ磐城国相馬郡立谷邑より起る。南北朝の頃、立谷十郞保朝あり、王事に盡す。奥相志に「立谷村に城址あり、建武中、北畠國司有家、靈山に城く時、麾下中野氏なる者、伊達郡より立谷村に至りて、立谷右京亮と號す。後に相馬に屬し、天文中に立谷越後あり、標葉郡邑に居りて封境を守り、夜討に遭ひて死す」と伊達家世襲の老臣に中野氏あり。右京亮は其の族なりと知らる。後年中野常陸介宗時といふもの、伊達政宗、晴宗、輝宗の三代に仕へて国權を執り、騒奢無禮にして、遂に不謀り、事露はれて相馬に走り、流落して死し、家亡ぶ。奥相志に、又立谷十郞保見ゆ、右京亮の族ならむ。或は曰ふ、立谷氏は、天文中に轉封と(伊達行朝勤王事歷)。日日タヂヨリタチモリカタチ田津タツ和名抄、相摸國御浦郡に田津〓を收む。

姓氏家系大辞典 第4巻 67コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

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