可児
かにKani
全国2124位 ・ 約7,000人
可児(かに)は、美濃国に可児郡があり、「和名抄」郡内に可児○を収める。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- かに
- ローマ字
- Kani
- 全国順位
- 全国2124位
- 推計人数
- 約7,000人
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
可児をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Kani読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「可児」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
丸に引両
横に引いた太い線を二本並べた図案。
『姓氏家系大辞典』第2巻 230コマに「家紋丸に可文字、八本矢車、丸に二引」とあります。 原典で見る →
図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 美濃国(岐阜県)
- 武蔵国(東京都・埼玉県)
- 対馬国(長崎県)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
可児(かに)は、美濃国(岐阜県)に可児郡があり、「和名抄」郡内に可児○を収める。この地から起こったものである。 【1】清和源氏土岐氏流 ― 美濃の可児郡可児郷から起こる。山県系図に「六郎二郎国氏―直国(可児十郎)」とみえる。戦国の頃、明智光家の家臣に可児才蔵長吉があり、葉付きの竹を指物としたことから「笹の才蔵」と呼ばれた。家紋は藻に蟹であるという。また森武蔵守長可の士大将に可児庄六、同藤助などの名がある。 【2】清和源氏斯波氏流 ― 伝説にいう、斯波右兵衛佐義持の子・対馬守定行は、美濃の名族で、金山(筑摩郡に金山邑がある)と関係があるか。……(この先は原文の行が崩れていて読み取れない) 【7】桓武平氏藤橋氏流 ― 磐城国(福島県・宮城県)伊具郡金山邑から起こる。「奥相志」に「永禄八年、藤橋紀伊胤泰は小斎保の主となり、相馬の北の境を守った。金山堡を築き、荒れ地を開いて田畑とした。これがまさに金山の開基である。胤泰の子・胤○は金山彦四郎と称し、天正四年、胤泰は金山を去った」とみえる。原の城主となり、可児氏と名乗った。 その裔である可児図書の子・庄右衛門は長久手で戦死し、その子・彦右衛門(三四郎)は忠政に仕え、移封に従って美作(岡山県)に至り、千五百石を賜って城代役を勤めた。その子・藤右衛門、三四郎定孝に至り、藩主除封のため帰農したという。勝田郡日上邑にある。 「津山分限帳」に「四十五俵、可児俊次郎」というのもみえる。また天正十九年十一月晦日の忠政判書に……(この先は原文の行が崩れていて読み取れない)
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
可兒カニ美濃國に可見郡あり、和名抄·郡内に可見〓を收む、この地より起りしなリ。 1〓和源氏土岐氏流美濃の可兒郡可兒郷より起る。山縣系圖に「六郞二郞國氏-直國(可兒十郞)」と見ゆ。戰國朱、明智光家が家臣に可兒才議長吉あり、葉附の竹を指物とせしにより、篠の才藏と呼ばる。家紋藻に蟹なりと。又森武藏守長可の士大將に可見庄六、同藤助等名あり。 2〓和源氏斯波氏流傳說に云ふ、斯波右兵衞佐義持の子對馬守定行、美濃毛路羽後の名族カン金山諏訪神家族筑摩郡に金山邑あり、關係あるか。……7桓武平氏藤橋氏流磐城國伊具郡金山邑より起る。奥相志に「水祿八年、藤橋紀伊胤泰、小齋保主となり、相馬の北彊を守る。金山堡を築き、荒山を開いて田圓と爲す、實に金山の開基也。胤泰の子胤〓·金山彥四郞と稱す、天正四年胤泰金山を去る」と見ゆ。原の城主となり、可兒氏と云ふ。その裔可兒圖書の子庄右衞門·長久手に戰死し、その子彦右衞門(三四郞··忠忠政に仕へ、移封に隨從して美作に至り、千五百石を賜ひ、城代役を勤む、其の子藤右衞門、三四郞定孝に至り、藩公除封の爲歸農すと云ふ、勝田郡日上邑にあり。津山分限帳に「四十五俵、可見俊次郞」と云ふも見ゆ。又天正十九年十一月晦日忠政判書に……
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ読みの名字
可児と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。
同じ漢字を使う名字
可児に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
同じくらいの多さの名字
全国順位が可児の前後にある名字です。
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