前橋
まえはしMaehashi
全国3733位 ・ 約3,300人
前橋(まえばし)は、上野などにこの地名がある。
この名字はまだ図鑑に載っていません
基本情報
- 読み
- まえはし
- ローマ字
- Maehashi
- 全国順位
- 全国3733位
- 推計人数
- 約3,300人
算出方法
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。
ローマ字で書くと
前橋をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。
Maehashi読みをそのまま写した形
パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。
この名字に記録のある家紋
『姓氏家系大辞典』の「前橋」の項に出てくる家紋です。家紋は家ごとのもので、名字が同じでも同じとはかぎりません。ご自分の家の家紋は、お墓・仏壇・紋付の礼服や、ご本家・ご親族への確認でたどれます(戸籍には記載がありません)。
丸に鷹の羽
鷹の羽根を二枚、斜めに組み違えた図案。
『姓氏家系大辞典』第6巻 15コマに「家紋は丸に鷹の羽の打違へ、氏神は八幡神社、七社權現」とあります。 原典で見る →
図は基本の形で描いたものです。原典の本文は機械で読み取った文字なので、誤字が混じることがあります。正確なところは原典のページでお確かめください。
名字の由来をたどる
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
- 上野国(群馬県)
- 備中国(岡山県)
- 丹後国(京都府)
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
前橋(まえばし)は、上野(群馬県)などにこの地名がある。石上姓、一説に在原姓ともいい、長野氏の一族である。「長野」の項を見よ。上野国勢多郡前橋(厩橋)邑から起こり、厩橋氏とも解する。 「和田記」に「厩橋は厩橋氏が代々居住した」と載せ、「国志」には「厩橋城は、元来上杉の旗下・厩橋監物、同道見が居住した所である。上杉定正の家臣・太田備中守持助入道道寛の縄張りである。もとは長尾弾正入道謙忠の居城であったが、長尾謙信の持城となった。 そのころ、北条氏康・武田信玄が両旗をもってこれを攻めたが落ちず、その後、北条丹後守、同弥三郎が城代となった。また後に滝川が関東管領のとき、この城に居住した」とある。 また「前橋風土記」には「府城の封侯は、いずれの将が何時築いたかを知らない。城下の長昌寺に歴代城主の位牌を設けている。第一は延徳元年の固山宗賢、その二は道安、その三は道賢、その四は賢忠、その五は前芸州(広島県)大守芳林、その六は宗祝で、それぞれの姓名を考えると、固山宗賢は長野左衛門尉である。 道安は道賢の父・長野道安である(橋林寺所蔵に道賢真蹟の附田の状がある)。道賢は長野弾正入道道賢である。賢忠は長尾入道賢忠である。芳林は北条安芸守である。宗祝は北条丹後守である」とある。 また寿延寺の記を考えると、笠間明玄がこの城を創築し、天文の間、長野道安がここに主となり、永禄元年、長野弾正入道がここに居り、長尾賢忠もまたこの地を守った。……(中略) 【2】下野(栃木県)の前橋氏 ― 栃木蘭部の名族で、前橋佐蔵氏がいうには、「前橋氏の出自は詳らかでない。先祖は下野国都賀郡皆川の城主・皆川山城守広照に仕え、元亀天正年間、厩橋氏と称した。また前林氏、古橋氏を称した形跡もあるが確かでない。 元禄年中の頃、前橋氏と改めた。上野国の厩橋を前橋と改称したのもその頃であろう。これもまた一つの奇縁というべきである。家紋は丸に鷹の羽の打違え、氏神は八幡神社・七社権現である」という。 【3】因幡(鳥取県)の前橋氏 ― 智頭郡三田○(この字は原文が崩れている)智頭駅牛頭天王社の神主家に前橋氏がある。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
原文(文語体)を見る
前橋マヘバシ上野等に此の地名あり。石上姓一に在原姓とも云ふ、長野氏の族也、ナガノ條を見よ。上野國勢多郡前橋(厩橋)邑より起りしにて、厩橋氏とも解す。和田記に「賑橋は厩橋氏·代々居住」と載せ、國志に「厩橋城·元來上杉の旗下脈橋監物、同道見·居住の所也。上杉定正の家臣太田備中守持助入道道寬·繩張なり。家前長尾彈正入道謙忠の居城なれども、長尾謙信持城となる。其の比、北條氏康、武田信玄·兩旗を以つて之を攻めしも落ちず、其の後、北條丹後守、同彌三郞城代なり。又後に瀧川關東管領の時、此の城に居住す」と。又前橋風土記に「府城封俟·何將が何時を以つて築くかを知らず爲。城下の長昌寺に、歷代城主の木主を設く矣。第一·延德元年に固山宗賢、其の二·道安、其の三·道賢、其の四·賢忠、其の五·前藝州大守芳林、其の六·宗祝、各々其の姓名を計るに、固山宗賢は長野左衞門尉也。道安は道賢の父長野道安也(橋林寺所藏に道賢眞蹟附田の狀あり)。道賢は長野彈正入道道賢也。賢忠は長尾人道賢忠也。芳林は北條安藝守也。宗祝は北條丹後守也。又壽延寺の記を考ふるに、笠間明玄·此の城を創藥し、天文の間、長野道安·此に主たり。永祿元年、長野彈正入道·此に居り、長尾賢忠·亦此の地を守る。……2下野の前橋氏栃木蘭部の名族にして、前橋佐藏氏云ふ「前橋氏の出自詳かならず、先祖は下野國都賀郡皆川の城主皆川山城守廣照に仕へ、元龜天正年間、厩橋氏と稱す。又前林氏、古橋氏を稱せし形跡あれども確かならず。元祿年中の頃、前橋氏と改む。上野國の眠橋の前橋と改稱せるも其の頃ならん、又一奇と云ふべし。家紋は丸に鷹の羽の打違へ、氏神は八幡神社、七社權現なり」と3因幡の前橋氏智頭郡三田〓智頭驛牛頭天王社神主家に前橋氏あり。
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
同じ漢字を使う名字
前橋に使われている漢字を含む、全国に多い名字です(字が同じだけで、由来が同じという意味ではありません)。
「前」の字を含む名字
同じくらいの多さの名字
全国順位が前橋の前後にある名字です。
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