嶽

たけTake

全国6518位 ・ 約1,450人

嶽(かきり)は、「右の所領は兼俊が代々相伝してきた所領である。

この名字はまだ図鑑に載っていません

基本情報

読み
たけ
ローマ字
Take
全国順位
全国6518位
推計人数
約1,450人
算出方法

上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。

都道府県別の順位は各県の上位5姓まで公表されています。

ローマ字で書くと

嶽をローマ字で書くときの綴りです。読みをヘボン式でそのまま写した形と、パスポートの表記を並べています。

Take読みをそのまま写した形

パスポートのヘボン式では、のばす音(長音)を省いて書きます(さとう→SATO)。ただし「まつうら」のように、のばす音か語の切れ目かが読みだけでは決まらない綴りもあるため、省いた形は末尾がお段+「う」の名字にだけ出しています。正式な綴りは申請先の規定をご確認ください。

名字の由来をたどる

由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。

ゆかりの地

  • 肥前国(佐賀県・長崎県)
  • 武蔵国(東京都・埼玉県)
  • 上総国(千葉県)

引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。

嶽(かきり)は、「右の所領は兼俊が代々相伝してきた所領である。よって嫡男の兼重に譲り渡すものである。よって今後のため、証文の譲状は件の如しとする。……(中略)大勢の中にあって、稀に生き延びた。弘安四年、蒙古合戦の勲功の実として、正応二年、肥前国(佐賀県・長崎県)神崎の庄を賜った」と。 「同四年閏七月七日、丹治重茂は、鷹島の賊船に押し寄せ、合戦の忠を致した刻、兼重も同じくかの所に押し寄せ、合戦を致し、賊船を焼き払わせた」と。 次に兼重の子として「兼光・福田又四郎、法名理○」とある(○は原文が崩れている)。「弘安四年、志賀島に押し寄せ、合戦の忠を抽んじた……(この先は原文の行が崩れていて読み取れない)。合戦を致させた刻、下人が疵を被り、弓を射折った。正応六年、異国警固番として、関東からの早馬の役により、五月三日、博多にお供した」と。 次に兼光の子は「兼能(平八)・兼信(三郎入道、法名理慶)」である。「元亨二年、宮崎宮放生会の辻固めの役に参勤した。嘉暦三年、同所の放生会辻固めの役を勤仕させた。元弘元年、関東の御教書の旨に任せて、同所の放生会辻固めの役に参勤した」と。 「正慶二年五月二十五日、武蔵修理亮英時を誅伐したとき、軍忠を致したことにより、親族の孫六以下、……(この先は原文の行が崩れていて読み取れない)。建武元年、朝敵の○高政(規矩高政)、同左近太夫将監貞義とともに、七月九日、板付合戦に馳せ参じた」と(○は原文が崩れている)。 「同二年の綸旨にいう、豊前国(福岡県・大分県)神崎村の十七分の一(道智跡)を、勲功の賞として知行させる。同年、新田右衛門佐義貞を誅伐されるとの間、一族以下軍勢などを催し、日ならず参上すべしという。同三年八月晦日、筑後国(福岡県)豊福原に馳せ向かって軍忠を致した」と。

本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。

原文(文語体)を見る

嶽カキリ。右件の所領は兼俊住代相傳の所領也。然るに依りて嫡男兼重に讓與する所也。仍りて向後の爲、證文讓狀·件の如し。……大勢の中たりと雖、希有に存命す。弘安四年、鞏古合戰動功の實として、正應二年、肥前國神崎の庄を賜ふ。同四年閏七月七日、丹治重茂·鷹島の賊船に押寄せ、合戰忠の叱、兼重·同じく彼所に押寄せ、合戰を致し、賊船を燒拂はしむ)」と。次に兼重-「兼光·福田又四郞、法名理〓弘文四年、志賀島に押寄せ、合戰の忠を抽んじて而して平國澄·疵を破る眩、兼光·類船の爲、合戰を致さしむる刻、下人·疵を被り、弓を射折る。正應六年、異國醫固番、關東御早馬の支に依り、五月三日、博多に御供仕る」と次に兼光の男「兼能(平八)-兼信(三郞入道、法名理慶。元亨二年、宮崎宮放生會辻固の支に參動。嘉層三年、右同所放生會辻固の支、動仕せしむ。元弘元年、關東御〓書の旨に任せ、右同所放生會辻固の支參動。正慶二年五月廿五日、武藏修理亮英時誅伐の時、軍思を致すに依り、親族孫六以下、若舊等〓を被る建武元年、朝敵上總播部助高政【規矩高政】、同左近太夫將監貞義と、七月九日、板付合戰に馳參ず。同二年の綸旨に云ふ、豐前国神崎村十七分一【道智跡】、動功の賞と爲して知行せしむ。同年、新田右衞門佐義貞を誅伐せらるゝの間、一族已下軍勢等を相催し、不日聽參ずべし云々。同三年八月晦日、筑後國豐福原に馳向ひて軍忠を致す。

姓氏家系大辞典 第5巻 309コマ
太田亮 著 / 国民社(昭和17〜19年)・全6巻

この項を原典で読む →

原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。引用はその項の書き出しを、文の切れ目まで載せたものです(「……」は、原文の行が崩れていて読み取れない箇所を省いた印)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。

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嶽と同じ読みの名字です。渡辺と渡邊のように、同じ読みで表記の違う名字はよくあります。

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