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全国14026位約431人
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
金持(かなもち、かなぢ、かもち)は伯耆国(鳥取県)の豪族で、日野郡金持邑から起こった。『地理志料』に「根雨村に金持城がある。『長門本平家物語』に長谷部信連は平氏の衰亡後、伯耆に至り金持に住んだ。文治2年、頼朝に召され関東に至ったという。『太平記』の船上山の条に、大山寺の衆徒700余騎、金持党300余人が行在を護衛したという。また還幸の条に、金持大和守景藤が錦旗を奉じて○奥に侍したという。おそらく右の族である。」と見える。『伯耆志』を参照。即ち長氏の族である。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
金持カナモチカナヂカモチ伯耆國の豪族にして、日野郡金持邑より起る。地理志料に「根雨村に金持城あり、長門本平家物語に長谷部信連、平氏の減後伯耆に至リ金持に居る。文治二年、賴朝召し關東に至ると。太平記、船上山條に、大山寺衆徒七百餘騎、金持黨三百餘人、行在を護衛すと。又還幸の條に、金持大和守景藤、錦旗を奉じて驚奥に侍すと。蓋し右族也、」と見ゆ。伯耆志參照。卽ち長氏の族なり。
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
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