この名字はまだ図鑑に載っていません
全国17021位約311人
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
行松(ゆきまつ)は伯耆国(鳥取県)○会見郡の豪族で、永正・大永の頃、尾高城に拠ったが、大永3年、河村郡の南条氏と共に、出雲富田城主尼子経久に○落させられ、但馬(兵庫県)の山名右衛門督入道宗詮に寄食したが、志を得ずして遠近に流浪した。この時、当城には尼子氏の配下の将・吉田筑前守(あるいは筑後守)が居り在番す。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
行松ユキマツ伯耆圓會見郡の豪族にして、永正、大永の頃、尾高城に據りしを、大永三年、河村郡なる南條氏と共に、出雲富田城主尼子經久に道落され、但馬の山名右衞門督入道宗詮に寄食せしが、志を得ずして遠近に流浪せり。此の時、當城には尼子氏の配下の將吉田筑前守(或は筑後守)·居りて在番す。
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
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