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全国18152位約279人
上位100位は明治安田生命「全国同姓調査」(2018年・契約者約655万人)の占率、101位以下は全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)の割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
田外(たげ)は美作国(岡山県)久米郡高尾邑の名族であり、武内宿国の後裔である。田中藤九郞盛兼は建武中に南朝に仕え、備中多気庄矢倉畝城に居た。子孫が伝えるところでは、田中播部介直重の弟、官兵衞尉直久に至った。天正二年十二月に毛利氏の攻撃に陥れられ、直久の子源二兵衞直治は共に篠葺城主江原兵庫に頼った。その後文禄元年に征韓の役が起こると、直久は軍に従い、○に戦死した。慶長五年に、源二兵衞直治の子源左衞門直隆は関ヶ原で戦没した。
本文の地名のうしろの小さな( )は、その旧国名がいまのどのあたりかを示したものです(訳に添えたもので、原文にはありません)。
田外タゲ美作國久米郡高尾邑の名族にして、武內宿國の後裔、田中藤九郞盛兼·建武中、南朝に仕へ、備中多氣庄矢倉畝城に居る。子孫相傳へて田中播部介直重の弟、官兵衞尉直久に及び、天正二年十二月、毛利氏の攻陷する所となり、直久の子源二兵衞直治と共に、篠葺城主江原兵庫に頼る。後文祿元年、征韓の役起るや、直久軍に從ひ、不三界に戰死す。慶長五年、源二兵衞直治の子源左衞門直隆は、關ヶ原に戰沒す。
原文は文語体のため、現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
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