「豊臣家滅亡」で消えたのは、秀吉と秀長の直系
まず、たしかに消えた部分から確かめておきます。大坂夏の陣で秀頼と淀殿が自害したあと、秀頼の息子・国松は捕らえられ、わずか8歳で六条河原で斬首されました。娘は命を助けられましたが、鎌倉の東慶寺で尼(天秀尼)となり、1645年に子を残さず亡くなっています。秀吉本人の血は、ここで完全に途絶えました。
弟の秀長も同じです。秀長は1591年に亡くなりましたが、実子の男子は早くに世を去っていたため、姉の子・秀保を養子に迎えて家を継がせました。その秀保も1595年に若くして亡くなり、大和郡山100万石ともいわれた大和大納言家は、わずか4年で断絶します。秀長の娘は毛利家に嫁いだものの、早世して子孫は続かなかったといわれます。
つまり「豊臣家滅亡」とは、正確には「秀吉と秀長の男系が絶えた」という意味です。この兄弟には、姉と妹がいました。妹の朝日姫は徳川家康の正室になりましたが、子はありませんでした。鍵を握るのは、姉のともです。
姉・ともの孫娘は、天皇家の先祖になった
秀吉の2歳上の姉・とも(のちの日秀尼)は、三好吉房との間に3人の息子を生みました。関白になった秀次、朝鮮出兵で亡くなった秀勝、秀長の養子になった秀保。豊臣家の跡継ぎ候補は、ほとんどがこの姉の子でした。
このうち次男の秀勝は、浅井三姉妹の三女・江(ごう)と結婚しますが、1592年、朝鮮出兵の陣中で病死してしまいます。残されたのは、その年に生まれた娘・完子(さだこ)でした。母の江は1595年に徳川秀忠へ再び嫁ぐことになり、完子は江の姉である淀殿の猶子として大坂城で育てられます。そして1604年、12歳で五摂家の一つ・九条家の当主、九条幸家に嫁ぎました。豊臣家の姫が、公家の最高格の家に入ったのです。
完子は九条家で7人の子を生み、九条家はその血を引いて江戸時代を通じて続きます。明治の当主・九条道孝の四女が節子(さだこ)、のちの貞明皇后です。節子は1900年に皇太子嘉仁親王(大正天皇)と結婚し、翌1901年に昭和天皇を生みました。つまり、昭和天皇から今の天皇家まで、秀吉の姉・ともの血が女系でつながっていることになります。豊臣家が「滅んだ」1615年から、およそ300年後の出来事でした。
ついでに言えば、完子の母・江はのちに徳川家光を生んでいますから、完子は三代将軍・家光の異父姉でもあります。豊臣と徳川の両方に足を置いたこの女性は、家系図の上でかなり特別な位置にいます。
秀次の娘は、真田幸村の側室になっていた
ともの長男・秀次の子孫も、意外な形で残ったといわれます。1595年の秀次事件では、秀次が切腹させられたうえ、妻子ら30人以上が京都の三条河原で処刑されました。ところが娘の一人(隆清院)は処刑を逃れ、のちに真田信繁(幸村)の側室になったと伝わります。
隆清院は信繁との間に娘のなほ(御田姫)と息子の幸信を生み、大坂の陣で信繁が討ち死にしたあと、なほは出羽の亀田藩主・岩城宣隆に嫁いで、跡継ぎとなる岩城重隆を生みました。弟の幸信も姉を頼って亀田藩に仕えています。秀吉に処刑された甥の血が、豊臣方として戦った真田家を経て、東北の小さな藩の殿様に受け継がれたわけです。この系譜には異説もありますが、豊臣の血がたどった道として、しばしば語られる話です。
「豊臣」を名乗り続けた家もあった — 岡山と大分の木下家
血ではなく「名前」の話もあります。秀吉の正室・ねね(北政所)の兄・木下家定の家は、備中足守藩(岡山県)2万5千石、家定の三男・延俊は豊後日出藩(大分県)3万石の大名になりました。この2つの木下家は、大坂夏の陣で豊臣宗家が滅んだあとも、本姓として「豊臣」を称することを徳川幕府から許されていたといわれます。江戸時代を通じて公式の場で「豊臣朝臣」を名乗った家は、事実上この木下家だけでした。
両家は明治維新まで一度も改易されずに続き、明治になると揃って子爵になりました。足守の木下家からは、白樺派の歌人として知られる木下利玄が出ています。ねねの実家なので秀吉の血縁ではありませんが、「豊臣」という名前を大切に守り続けた家が、昭和22年に華族制度が廃止されるまで、華族として存在していたのです。
「滅んだ家」は、たいてい滅んでいない
「〇〇家滅亡」という言葉は、ほとんどの場合「当主の男系が途絶えた」という意味にすぎません。家の名前が消えても、姉や娘を通じて血はどこかへ流れていきます。日秀尼は92歳まで生き、弟の秀吉と秀長、3人の息子、甥の秀頼まで、豊臣家の男たちをすべて見送りました。その彼女の血が、九条家を経て今の天皇家に続いているというのは、家系図というものの本質をよく表しています。
自分の家系図でも同じことが言えます。「うちは分家で、本家はもう絶えた」「先祖は〇〇家の家臣だったが、その家は取り潰された」という言い伝えは、男系の名字だけを見た話かもしれません。女系や養子の線をたどると、まったく別の名字の家につながっていることは珍しくありません。戸籍を取って母方や祖母の実家をさかのぼると、思いがけない家名が出てくることがあります。当サイトの家系図では、養子や女系の線もそのまま書き込めます。まずは名字さくいんで、自分の家と母方の家の名字を引いてみてください。

