庶民は長いあいだお墓を持てなかった
日本で石のお墓を建てられたのは、長いあいだ貴族や武士などごく限られた人々でした。立派な石塔を建てるには相応の財力が要ります。庶民の多くは、亡くなると村の共同の葬地に葬られ、個人の墓石が残ることはほとんどなかったと考えられています。
つまり「家のお墓が代々ある」という風景は、日本の歴史の大半において、ごく一部の家だけのものでした。地域によっては、遺体を埋める「埋め墓」と、お参りのための「参り墓」を別の場所に設ける両墓制という習俗があったことも知られており、庶民の弔いの形は今とはずいぶん違っていました。いま当たり前に見えるお墓のある暮らしは、決して太古からの伝統ではないのです。
転機は江戸時代 — お寺と庶民が結びついた
流れを変えたのは江戸幕府の宗教政策です。幕府はキリシタン禁制を徹底するため、すべての人をいずれかの寺院に所属させ、寺がその身元を証明する寺請制度を敷きました。寛文11年(1671年)には宗門人別改帳の作成が制度化され、庶民は必ずどこかのお寺の檀家になります。いわゆる檀家制度の始まりです。お寺は檀家の葬儀を執り行い、亡くなった人の戒名と没年を過去帳に書き継いでいきました。結果として、日本中の庶民の死亡記録が寺院に蓄積されるという、世界的に見ても珍しい状況が生まれます。
こうして庶民とお寺の結びつきが強まると、お寺の墓地に庶民も墓石を建てる例が増えていきます。庶民の墓石が広まったのは江戸時代中期以降といわれ、その歴史はせいぜい300年ほど。奈良の大仏や五重塔に比べれば、庶民のお墓ははるかに「若い」文化なのです。しかもこの頃のお墓は、一人にひとつの個人墓や、夫婦でひとつの夫婦墓が主流で、「家族みんなで同じお墓に入る」形はまだ一般的ではありませんでした。
「○○家之墓」は明治生まれ
いま普通に見かける「○○家先祖代々之墓」のスタイルが広まるのは、明治以降です。明治31年(1898年)施行の明治民法で「家」を単位とする家制度が定められ、お墓や仏壇などの祭祀財産は家の跡継ぎが受け継ぐものと位置づけられました。家意識の高まりとともに、お墓も個人単位から家単位へと姿を変えていきます。
火葬の普及も後押ししました。土葬では一人にひと区画が必要ですが、火葬なら骨壺にして一つのお墓に何人も納められます。都市部の墓地不足もあって、「一家にひとつのお墓」が合理的な形として定着していったといわれます。多くの家の「先祖代々之墓」は明治から昭和にかけての建立——つまり、あなたの曽祖父母や祖父母の代に建てられた可能性が高いのです。「先祖代々」の文字は、遠い過去からの継承というより、「これから先、代々ここに眠る」という当時の家族の宣言だったともいえます。もしお墓の建立年が刻まれていれば、それはあなたの家の「家墓元年」。誰がその決断をしたのかを想像するだけでも、家の歴史が少し立体的になります。
墓石は「石の戸籍」 — お彼岸は調査のチャンス
「なんだ、意外と新しいのか」とがっかりする必要はありません。むしろお墓は、先祖調査の強力な手がかりです。墓石の正面だけでなく側面や裏面、隣に並ぶ古い石にも、こんな情報が刻まれていることがあります。
- 戒名(法名)と没年月日 — 菩提寺の過去帳や家の位牌と突き合わせる起点になる
- 俗名と享年 — 戸籍の記載と照合して、どの先祖のお墓かを特定できる
- 建立者の名前と建立年 — 誰がいつ家のお墓をまとめたのかがわかる
- 家墓の脇の古い個人墓・夫婦墓 — 墓地の隅に江戸時代の先祖の墓石が残っていることも
調べるときのコツは、写真をたくさん撮っておくことです。彫りが浅くなった文字も、斜めから光を当てたり、濡らしたりすると読めることがあります。読み取れない字があれば、菩提寺のご住職に尋ねてみるのも手です。
戸籍で遡れるのは、多くの場合、幕末から明治初期に生まれた先祖までです。その先へ進む数少ない手がかりが、菩提寺の過去帳であり、墓地に残る古い墓石です。お彼岸の中日である秋分の日は、太陽が真西——彼岸(あの世)とされる方角に沈む日で、ご先祖との距離がいちばん近づくときといわれます。今年のお墓参りでは、手を合わせたあとに、墓石の側面の文字をゆっくり読んでみてください。石に刻まれた名前の一つひとつが、戸籍より古い時代へ続く扉かもしれません。家系図づくりの最初の一歩は、案外そんなところから始まります。

