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全国9980位約750人
全国の電話帳登録件数(城岡啓二・村山忠重「日本の姓の人口順のデータ」)に占める割合を、総務省統計局「人口推計」の総人口にあてはめた推計値です。実際の戸籍上の人数とは異なります。
由来は本によって説が分かれます。このサイトは解説を書かず、姓氏研究の定番『姓氏家系大辞典』(著作権の保護期間満了)の項をそのまま引きます。
ゆかりの地
引用した『姓氏家系大辞典』の本文に出てくる地名を、現在の都道府県に読み替えたものです。いま全国のどこに多いかを示すものではありません。
玄○村芦王神社は、かつて山田孫五郎宗久がこの場所に建立したという。宗久は、その先祖は島津忠時の次男に出たという。この氏は藤原姓ともいい、初めは山田式部少輔藤原忠継に四人の子があり、長男は式部少輔山田殿、次男は中村次郎、第三は白文三郎、四男の四郎忠重は庶子だという。なお宮里条を参照。また「正平13年5月1日、山田諸三郎忠経に上伊敷村の地頭を与えたという」と山田蔵記に見え、また山田伊賀忠経は応永年間に肝付兼興に敗れたという、1804ページの上段を見よ。
玄ミハ村芦王神社は、往年、山田孫五郞宗久·此所に建立すといふ。宗久は其の先、島津忠時席長子に出づ」と。この氏は又藤原姓と云ひ、始め山田式部少輔藤原忠繼に四子あリ、長は式部少輔·山田殿、次は中村次郞、第三は白文三郞、四男四郞忠重は庶子也と。猶宮里條參照。又「正平十三年五月朔日、山田諸三郞忠經に上伊敷村地頭を賜ふと山田蔵記に見え、又山田伊賀忠經は、應永中、肝付兼興に敗らると、一八〇四頁上關を見よ。
原文は文語体のため、AIで現代語に訳したものを載せています(内容は足していません)。原文は機械で読み取った文字で、誤字や判読できない字(〓→○)が混じります。正確なところは原典のページでお確かめください。
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